ブログ

ブログの更新が止まって1年以上が経過していた。その間、割とずっとバタバタと忙しく、ブログのことは気にかけつつも放置してしまっていた。

このサイトには、未だにかつて作った自作の安価な低温調理器の記事が多く検索に引っかかるようで、毎日複数のアクセスがあるようだ。あれを書いた2016年には、低温調理器というと当時3万円弱したAnovaぐらいしか無かったので、たかがセンサー付きヒーターに何万か払うのは癪だし、自分で作ったほうが面白いと考える層がたくさんいたのは理解できる。だが、2018年現在では複数のメーカーが同じような製品を出しており、安いものでは7000円程度で買えてしまうから、コストパフォーマンス的には自作の低温調理器を作る意義はかなり薄れているとは思う。それでも、あの記事が、「買ったほうが早いし安い」という状況下のなか、あえてDIYすることを選ぶ方々の一助となっているのであれば嬉しくは思う。

「お茶殻をつかった日干しレンガづくりのワークショップ」に参加しました

先日、告知した「お茶殻をつかった日干しレンガづくりのワークショップ」に行ってきました。暑い中で、大変でしたが他の参加者の人々と、ひたすら土を枠に詰めて棒で叩いて固めていくという作業を一日じゅうやっていました。普段運動していない弱い体だったので、中腰の体勢で棒を力強く何千回と打ち付けまくるハードワークで体が悲鳴を上げましたが、それでも何とか出来上がった数十個のレンガを見ていると、気持ちのよい達成感がありました。実際に立体物ができあがる瞬間はよいものです。

今回のイベントは、秋に行われる、かけがわ茶エンナーレというお茶を使ったアートイベントで使われるレンガをつくるという趣旨のものでした。何度かのワークショップでつくるレンガを使って、小さな茶室を作るようです。日干しレンガはもともと、藁などを混ぜ込んで強度を上げるようですが、お茶がらを混ぜ込んだものでも、同様に強度が上がることを実験によって証明した上で、今回の計画を練り上げていったようです。

翌日も別の場所で同じようにワークショップが開かれたようです。家族連れなどがたくさん参加したみたいです。

OK Computer OKNOTOK

何の脈絡もなく音楽の話をする。先日、Radioheadのアルバム「OK Computer」の発売20周年を記念して、全曲リマスターと未発表音源を追加した記念盤、「OK Computer OKNOTOK」が発売された。いつも音楽を聴いているストリーミング音楽サービスのSpotifyにもその音源が追加されていたので、改めて聴いていて、やはり素晴らしいなと思うのだが、中でも、個人的に一番好きな曲「no surprises」を何度もリピートして聴いた。。。

no surprisesは、曲調もさることながら、歌詞が良く、全体的に「こんなはずじゃなかったのに」という後悔や諦念が穏やかにただよっている雰囲気が、とても好きで、もう10年以上、聴き続けてしまっている。。

such a pretty house, such a pretty garden
no alarms and no surprises, please
(ちいさな家とかわいい庭 おびやかされることも、驚くこともなく暮らしたい…)

歌詞は、大まかには、もう色々とたくさんだから静かに暮らしたい、という内容なのだが、たぶんそれは文字通りの意味ではなく、どうしてこうなってしまったのだろう、でもこうなるしかなかった、という喪失感に満ちていて、自分は、その、言っていることと思っていることが引き裂かれている感じが好きでたまらなかった。

 

 

そういうギャップのある曲では、たとえばLou Reedの「Perfect Day」なんかも好きだった。完璧な日、というタイトルにふさわしく、歌詞が、恋人と公園でサングリアを飲んだり、動物園に行ったり、旅行に行ったり、君と過ごせてうれしい、君のおかげでやっていける、、みたいなことを言っているのだが、曲調が明らかに悲壮感にあふれており、それらの楽しいことが、すでに終わったものなのだろうことが暗に感じられるギャップがすごく良いと思った。

Just a perfect day
You made me forget myself
I thought I was
Someone else, someone good
(完璧な日 君は僕自身を忘れさせてくれた 僕が他の誰か、他のもっとまともな人間だったら良かった)

さらに、曲単体ではないが、MOGWAIの「Happy songs for happy people」というアルバムも好きだった。アルバムタイトルは、ハッピーな人たちのためのハッピーな曲、と謳っているのに、どう考えてもアルバムの曲の雰囲気は幸福感というより空虚感に満ちており、曲タイトルも、「Hunted by a freak(気狂いに狩られた)」「Boring machines disturbs sleep(退屈な機械が眠りを邪魔する)」「Stop coming to my house(オレの家に来るな)」など、ハッピー感は一切、ない。それでも収録曲は、時折すごくきれいなメロディがあって、空虚さの中に、それでも何かしらの幸せを感じられる。

こういう、言っていることと、本意が違う気がするような表現にはいつも惹かれる。今回リマスターされた、OK Computerも、OKNOTOKというサブタイトルのようなものが付いていて、最初コレなんだろうと思ったのだが、OK NOT OKと切ることができるのが分かり、自分としてはとても腑に落ちた気がした。OKはOKじゃない、、そのとおりだと、思った。

[告知] お茶の葉入り日干しレンガづくりのワークショップ

大学の後輩にあたり、設計や様々なインスタレーション制作などで活躍されている2.5 architectsさんが、7月8,9日の土日に、掛川で「お茶の葉入り日干しレンガづくりのワークショップ」を行うそうです。秋に開催される「かけがわ茶エンナーレ」にて、このワークショップで作った日干しレンガを使った茶室が建てられる予定だそうです。

面白そうなワークショップですので、静岡に在住のみなさん、参加されてみてはどうでしょうか。自分も参加してみようと思います。

ステルス

バタバタとしていて、ひと月以上もブログを更新できていなかった。

先日、疲れていたのでスーパー銭湯に行った。そこはファミリー利用者も多い、漫画喫茶とかレストランとかネットカフェ的なものが合わさったような大きなスーパー銭湯だったのだが、ふとインターネットコーナーを通った時、用意されたPC7-8台のすべてに、幼稚園から小学校低学年くらいの子どもたちが座っていて、全員が、それぞれYouTubeでゲームのプレイ動画を見ていたのが目についた。

Minecraftの動画を見ている子が2,3人いて、残りの半分は、たぶんそれぞれ違うゲームだと思うが、FPS(一人称)の動画を見ていた。戦場ものだったり、異世界ものだったり、いろいろあった。そのなかでも、年齢が一番低そうに見えた女の子が、ステルス系というか、メタルギアソリッドシリーズ的な、隠密行動しながら、見つからないように敵を倒すっぽいハードなゲームの動画に見入っていた。他の子らはけっこうドンパチやっている感じの画面だったのに対し、その子の画面だけやけにシリアスで緊張感ある雰囲気になっていた。

普通に流血表現などがあったので、レーティング的には18歳以上とかそういう内容のゲームだと思うが、一般的に、いまの小学生たちは、そういうゲームを普通に楽しみ、話す相手がいるのだろうか。仲間うちで、どのライフル銃が一番かっこいいか話したいのに、ポケモンGOの情報交換などに話を合わせているのか、それとも、敵の注意をひくための手榴弾の使い方などを話す友達がいるのか、わからないが、上記の子が動画を見る姿は、真剣そのもので、きれいな感じがした。

30歳を超えた人間が、小学生たちの背後で画面をじっと見ているのはおそらく問題があると思ったので、気づかれないうちに、その場を去った。

ウィーン・プラハ・ヘルシンキ

休みの間は旅行に出ていた。主に父親の旅に同行する形で、ウィーン、プラハ、ヘルシンキの3都市をまわった。どの都市も初訪問ではなく、特にウィーンとプラハに関しては昨年夏にも行っていたので、一年経たずして再訪した形となった。。。短期間で2回、訪れるとは思っていなかった。

ウィーンで見かけた、どこかの住宅の窓際。乱雑で、汚いのだが、個人的趣味としては、こういうものが落ち着く感じがする。空のミネラルウォーターのペットボトル、片方だけのスニーカー、やけに青々とした小さいレモンの木、布切れなど、関連性のないものが適当に置かれている。台にもホコリや土が積もっていて、きれいに飾ろうという気はないと思われる。ただ単にいらないガラクタをここに集めただけなのかもしれない。犬やカラスが、彼らの審美眼で、よくわからないものを寄せ集めるような、無垢な装いがある。

オットー・ワーグナーのウィーン中央郵便局、アドルフ・ロースのアメリカン・バーなどは、再び見られてよかった。

ミュージアム・クォーターのDesign Austriaという棟では、オーストリアのタイプデザイナーの展覧会などもやっていた。2,3年前にRed dot awardsなど受賞していたSindelarなど、見たことのあるタイプフェイスもあった。

プラハのキンスキー宮殿内にある国立美術館では、ドイツの画家ゲルハルト・リヒターの大規模な回顧展が行われていた。初期の作品から最新作まで、代表的な作品がかなりの量、展示されていた。好きな作家なのだが、どのように解説してよいのか未だに良くわからない。写真でもなく、絵でもなく、対象物の輪郭は常に焦点が合っていなく、とにかく薄ぼんやりと虚ろな感じが好きなのだが、何と言って良いのか、良くわからない。

ヘルシンキは3年ほど前に一度、来たことがある。その時もアアルトのスタジオと自邸を見学した。今回も見学し、とても良かった。空間自体はコンパクトなものなのだが、家具類や調度品、テキスタイルなどの諸要素との複合的な構成が相当にうまいと感じる。アアルトの死別した最初の妻も、二人目の妻も、家具やテキスタイルのデザイナーだったので、その二人との協業の結果との解説を受けた。。

1週間ほどで、3都市を回り、もろもろのものを見た。見るだけなら、誰でもできることだが、見た。

モネの庭

かつてよく遊んでいた公園への入り口。春ももうだいぶ進行したので、草がモサモサと生い茂っていた。この写真とは全く関係がないが、事務所の窓から見える景色も、日に日に緑が色濃くなっていくのがわかる。

この空き地のような、全く手入れされていない、複数の種が入り乱れた状態は、整理されていないのに見ていて落ち着くものがある。完全に枯れて色が落ちた背の高い草があって、今まさにポンポンと花開いている小さい草があって、奥には何種類かの樹木があって、手前にはやや南国調の趣のある低木があって… ぐちゃぐちゃとしてるのが、逆に光や色の拡散になって、良い感じだと思う。

完成度が違うが…こういう、ごちゃっとした庭は、かつて訪れた、フランスのGivernyにある印象派の画家クロード・モネの家の庭がまさにそういうもので、そこで自分は、そのごちゃごちゃ感の美しさを知って、強い衝撃を受けた…。ガーデニングなどだと、つい、植物の背の高さや、色彩などで、植物をバランス良くゾーニングして配置してしまいがちだと思うが、そのモネの庭は、見ようによっては、草花が好き勝手に生えたんじゃないのかと思えるような、混沌とした植栽になっていた。全方向に飛び散るように伸びまくる大小の葉っぱと、パラパラとそこらじゅうにばら撒かれたようなカラフルな小花で、光が乱反射して、庭全体がハレーションを起こしているような感じがした。モネは、景色を光の粒子に変えて、点描で描くという技法を開発して印象派を確立したが、この庭を見ると、本当にモネの絵の印象がそのまま現実化したような感じで、モネはこの庭をそのまま描いていたのだということが、よく分かった。

ちなみに、浜松市のガーデンパークという公園にも、この「モネの家」「モネの庭」を再現したという触れ込みの、「モネの庭」という一角がある。かつて開催された浜松花博というイベントの目玉の一つだったと思うが、「家」のほうはまだしも、「庭」は、本物と比べるとあまりにも違う。。地理的な要因で、そもそも太陽光の雰囲気がフランスと日本では違うだろうから、全く同じ植栽にしたとしても、たぶんあの乾いた光の乱反射の感じは再現できないのだと思うが…

静岡県県産品シンボルマーク

浜松市に点在するデザイナーたちを繋げて、それぞれの技術や知識を活かして相乗的にデザインの質を上げ、問題解決に取り組んでいくという、DORPという組織があります。そこの活動に参加し、静岡県の農林水産物などの県産品のPRに使用されるシンボルマークを、学生やデザイナーの皆さんとともに共同でデザインすることに関わらせていただきました。

今回のデザインは、静岡県庁内のプロジェクトチームの皆さん、そして静岡文化芸術大学の学生3名や、PLANPOT DESIGN WORKSの鈴木さん、写真と、企みの大杉さん、サイフォングラフィカの宮下さん、フロムフラットデザインの谷村さん、同様にフリーで活躍している桑田亜由子さんたちとともに、それぞれの知見を持ち寄って、複数回にわたるデザインレクチャーやデザインワークショップなどを重ねつつ、皆でアイデアをブラッシュアップしながら制作が進められました。先日、無事にプレスリリースがあり、今後、もろもろの県産品のPRを後押しできるものになっていくことを願っています。

カールステン・ニコライ展 パララックス

先日、千葉県市原市にある市原湖畔美術館に、カールステン・ニコライというドイツ人のミニマル系アーティストの展示を観に行った。この美術館は東京から電車を乗り継いで行くと2時間以上かかるのだが、東京駅から高速バスを利用すると、1時間ほどで最寄りバスターミナルまで着き、そこからはタクシーで5分ほどで美術館に着くことができる。公共交通機関ではおそらくこれが一番早いだろう。

なぜ、市原市という地方の小さな美術館でこの展示が開かれることになったのか分からないが、この作家は昔から好きだったので、多少、遠くても、どうしても観に行きたかった。とはいえ、今回はちょうど東京に行く予定があり、そのついでに、行ったのだが…。

この人の作品作りのアプローチは、とても科学的なもので、心電図のように規則的に波打つ線の映像や、雲の表面の凹凸をひたすら並べただけの映像、不規則な低周波の干渉で起こる、ぼやけたりちぎれたりする光の映像など、数学的な規則性や、ある物理法則の一部分をひたすら見せている。たとえば自然のなかで、水辺の波紋をずっと見ていたり、葉っぱが揺れる影を何となくずっと眺めていたりすることが、人にはあると思うが、そういう心地よい反復と、ろうそくのような少しの揺らぎがあって、無意識に引きつけられるものがある。

自然の映像などだと、情緒が発生してしまうので、邪魔だが、この人のは、ただの線だったり、白黒の明暗だったり、いかにも冷たそうな、感情を排した表現に徹しているのがとても良い。論理と感情は背反する要素と捉えられることが多いが、たとえば、科学者や研究者が、客観的な研究成果の発表をしているなかで、ふいに気がつくと美について語っている瞬間があるようなこともあり、それらは別物でなく、同様に想像力の産物なのだろうと思う。

寺田寅彦という物理学者の書いた本を読んだことがあるが、それは淡々とした文章で、こういうことがありました、そして次にこういうことがありました、それからこうなりました、こう思いました、という事実が記号のように静かに並んでいた。でもそれなのに確かな感傷があって、美しい余韻があった。今回、見たこれらの映像にも、同様の感傷があった。

展覧会を見ながら、確か…昔…小林秀雄?だったかが…詳しく覚えていないが、誰よりも豊かな想像力がないと研究者はできない、と書いていた文章を思い出していた。

ちなみに自分は文学や文学批評に詳しいわけでは全くない。こういう良い展示をみていると、今まで雑に読みかじった、もろもろのものが何となくつながって感じられる時がある。

(※これは、写真撮影が許可されている展示でした)

Vertical protter 1

最近は機を見て、一般にVertical protterと呼ばれる吊り下げ式のドローイングボットを作成している。2つのステッピングモーター(回転量をプログラムで制御できるタイプのモーター)を使って、吊り下げられたボールペンを上下させて、図形を描いていく。数年前に一度、簡易的なものを作ったことがあり、また作り直したいと思っていたのだが、そのまま数年が過ぎていた。。

今回またゼロからプログラムを作り直しているので、時間がかかっているが、ランダムな四角形を描くものは出来た。

ロゴと色の組み合わせを自動生成するサイト builtbyemblem.com

以前に、illustratorのスクリプトで、ランダムなフォントで文字を組んで、デザインのアイデア出しを効率化することについて書いたが、それと同じようなことが手軽にできる、とても良いウェブサイトがあった。Builtbyemblem.comというサイトで、文字列を入力すると、その文字列が様々な雰囲気のフォントおよび背景色で無限に表示されていく。各タイルをクリックすると、snsやモバイルアプリに展開したときのモックアップイメージまで自動生成されるようになっている。。

自分ではあまり発想しない雰囲気の文字や、組み合わせにも、こういうツールの力を借りることでアクセスすることができて、より柔軟な思考が得られるので、この手の便利サイトがあれば、またメモがてら載せていきたい。

4月

ずっとバタバタとしていて随分久しぶりの更新になってしまった。4月になったというのにまだ寒く、外を歩くと一応、春らしいものたちが控えめに存在しているが、例えば桜などもまだ大っぴらに咲いたりしていないようだ。

外に出れば数分で湖畔の公園に着くところに住んでいても、普段ほとんど篭って作業ばかりしているので、そうした自分の習慣がなかなか変わらないことに気が付かされる。

ずっとエンドレスで作業してしまうので、意識的に外に出て、公園を散歩してみると、まだ花の咲いていないつぼみ状態の桜の木の下で、シートを広げて、おにぎりなどの弁当を静かに食べている若い夫妻と子供の姿があった。平日の昼間で、人もほとんどいないうえに、桜並木の下には、花見の場所取りに関する注意書きのカンバンが並んでいて、開花後のおおきな賑わいを予感させる状況下で、ぽつねんと半歩早い花見をやっていた。

その様子がとても侘びた雰囲気で、良かった。千利休は咲き乱れる朝顔をあえて一輪だけ残して全て摘み取って、そのコントラストで侘び感を出したが、今回の花見家族は、あえて桜の咲く一瞬前の今日の日をえらんで、来週には華やいでしまうこの公園の姿を幻視させて、時空間のコントラストで侘び感を出していたようにも思えて、技巧的な気がして、なるほどと思った。。。

Elizabeth Peyton: Still life 静/生

品川の原美術館で、Elizabeth Peytonというアメリカの女性画家の展示を観た。「Still life 静/生」という展示タイトルで、国内では初の個展となるとのことだった。

from Michael Werner Gallery website

かなりざっくりとしたタッチで、透明感ある淡い彩度の肖像画を多く描いている作家で、エドワード・ホッパーとかリュック・タイマンスのような、あえてディティールを描き切らない素朴さのある形と、そこにあたる光の感じがきれいで、かなり良かった。

from ART-iT website

ロックミュージシャンのポートレートが何枚かあって、カート・コバーンとかシド・ヴィシャス、ジュリアン・カサブランカス、ピート・ドハーティ…などのものがあった。実際に会って描いているわけでなく、写真から起こしているらしいが、どれも本人の特徴をとらえつつも、何か未熟さを感じさせる筆づかいによって、素朴な表情になっていた。何か、中学生くらいの年齢の子が、憧れるままにスケッチブックに模写したような雰囲気があり、技巧的な感じが一切しないので、すごく親しみを感じて、いい絵だなと思った。

画家としてのキャリアが25年近くある作家なのだが、巧くなって退屈になってしまうことから逃れきっていて、良いなと思う…。遠い昔に絵を描いていたけど、久しぶりに絵筆をとってみました、といった雰囲気の、光をきれいに捉える成熟した観察眼と、それに追いつけない稚拙な筆づかい、といったアンバランスさが、凄く印象的なバランスになっていた。

石井明朝体

駅のそばの駐車場のエレベータの注意書きステッカーが、強い色彩とシンプルな線画で良い雰囲気だった。特に、「あぶない」の書体が、いまのDTPでは使うことのできない、写研の写植用書体、「石井太明朝体オールドスタイル」で組まれていて、味がある。

かつて日本では書体メーカーは写研とモリサワが2大勢力で、2大といっても、写研が7-80%のシェアを占めていたようだが、80年代後半に時代がコンピュータを使った組版(DTP)に移行していく中で、積極的に書体のデジタル化を進めたモリサワに対し、写研は独自路線で書体のデジタル化や販売を行わない姿勢を貫いたことから、シェアは一気に逆転し、写研はもはや使用されることはほとんど無くなってしまった。

しかし写研のフォントは、当時一大勢力を誇っていたように、その形の美しさや完成度は今もなお失われておらず、時々、どうしても写研のフォントでなければ雰囲気が出ないとこだわる書籍編集者や装丁者によって、ほそぼそと使われ続けているようだ。

このステッカーに関しては、写研のシェア全盛期の30年以上前に貼られたままずっとそのままなのか、あるいは、その当時の版下を使い続けているステッカー業者がいるのかどちらかだろうが、この独特のやわらかい雰囲気のひらがなは、たしかに目に留まる。

中田島砂丘

少し気分転換に海へ行った。天気が悪く、大降りというわけではないが、小雨とも言えない程度に、しっかり雨が降っている日だったにも関わらず、何となく家を出た。風はそんなに無いとはいえ、十分に寒く、明らかに海など行くような日ではなかったが、頭をリセットする必要があった。車で20分ほどで、浜に着く。

雨のおかげで砂浜が湿って固まって、歩き易くなっており、その点は良かった。通常であれば、足元が砂まみれになることは避けられない…。

浜には男女がひと組いた。てっきり無人だと思ったが、こういう雰囲気の海が好きな人たちかもしれない。しかしその二人は、自分より先に帰ってしまったので、その後は見渡す限り誰もいなくなった。

ここ中田島砂丘は、高校生だった頃、陸上部の練習(浜練と呼ばれていた)でよく来ていた。ある時、皆でダッシュ練習をしていたとき、テレビ局のディレクターなる人が突然現れて、今からドラマの撮影でこの浜辺を使うので、申し訳ないけれども場所を空けてほしい、協力してもらえたら粗品も提供するといったことを言った。当時の部長が、じゃあという事で場所を明け渡した。我々は遠くから、テレビ局のスタッフの方々が、ダッシュ練でボコボコになった砂浜を整地するのを見ていた。何かボロボロの格好でギターを抱えた俳優が出てきて、「この夢がかわいそうだよ」という歌詞の歌を熱唱しながら浜辺を歩いているシーンを撮影していた。我々は、なんでかわいそうなんだろうね、などと話しつつ、「粗品」を待っていたのだが、いつまでも撮影が終わる気配はなく、粗品というのも、部員一同どうでもよくなっていたので、他の場所で残りの練習をして、浜を後にした。結局、なんのドラマの撮影だったのかは、知らない。

 

中田島砂丘はアカウミガメの産卵地として知られているので、卵を安全に孵化させるためのケージが置いてあった。これは昔は無かった気がする…。

寒かったのと、海をちょっと見たら満足したので、すぐに帰った。

再加熱可能ペットボトル

コンビニで売っている温かいペットボトルのお茶、いつの間にか内容量500mlのものがかなり増えているのを全然知らなかった。確かに以前は、温かいペットボトルのお茶は少し容量少なめの350mlというのが定番だったので、若干割高感があったのだが…。さらに、伊藤園のものは、ペットボトルのままレンジに入れて加熱もOK!となっていて、進歩を感じた…。ペットボトルはレンジに絶対入れてはいけないはずだったが…。このペットボトルは、少し厚くて、透明度が若干低いようだ。

「さめてもおいしい」けど「レンジで再加熱もOK」という、すべてのネガティブ要素を潰していこうとするメーカーの努力…

デザインのルーツを開示することについて

昨年末のことになるが、静岡文化芸術大学でJAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の新人賞の巡回展がやっており、たまたま同大学図書館を利用した際に、見ることが出来た。3人のデザイナーのきれいなコマーシャルワークが展示されていた。

デザインでも、絵画でも音楽でもなんでもそうだが、どんな人であっても、「過去のどんな人の作品にも似ていない全く新しいもの」というのは、基本的には作ることが難しい。「過去のどんな人の作品からも一切の影響を受けていないもの」と言い換えると、それがどれだけ難しいことかが分かる。逆に言えば、何らかのベースがない限り、新しさというのは定義できないものなので、それが新しいというのなら、古いものが何なのか知っている、あるいは定義する必要がある。

誰もが何かから影響を受けて、何かを作っていくのだが、そのような、「この作品を作る上で、誰の、どの部分に影響を受けたのか」というルーツを知ることは、学びを得る上でかなり役に立つことだと思う。でも、そういう情報というのは、わりと隠されてしまっていることが多く、それによって、作品の理解のきっかけを損失してしまっていることがよくある気がする。

過去のいろいろな芸術家が、なにか新時代を作る作品を作ったときも、(あたりまえなのだが、)その主張は、「今までのものはコレだから古く、私が作ったものはコレだから新しい」という形式をとる。

例えばピカソがキュビズムを始めたときも、「今までの絵画はひと画面にひとつの視点しか入れてなかったから、私の新しい絵画はひと画面に2つ以上の視点を持つ」と言って、正面と側面のに2視点がくっついたような人物画を作った。学校で美術を習う際も、歴史を追うようにして芸術を教える(と思う)。ピカソが超天才だったのでいきなり最高に新しいものが出来ました、という説明ではなく、それまでにどんな絵画があって、どのような系譜でそこに至ったのかということは必ず説明される。というより、それが説明されるまで、少なくとも自分は、ピカソがどう凄かったのかというのをよく理解できなかった。

デザインについても同じことが言えて、何かトレンドになったレイアウト等を見た時も、それ単体のみを眺めているのと、それに至るまでの系譜を知った上で眺めているのだと、だいぶ見方が変わってくる。

そういう観点では、イギリスにいた際に行ったデザイン系の展覧会の中で、印象に残ったものがひとつあって、それは、SPIN 360という、ロンドンのデザイン事務所SPINの今までの仕事を集めた展覧会だった。

この人達の展覧会では、自分の仕事をただ紹介するだけでなく、自分が影響を受けた他のデザイン、自分のデザインの参照元を同時に大量に展示していて、むしろ自分たちの作品より、そういう先人たちの作品のほうが扱いが大きいくらいの勢いをもって、展示を組み立てていた。一応、個展のはずなのだが、個展というには全体に占める自作の分量がかなり少なかった。

でもその見せ方が自分にはとても面白く感じられた。レイアウトや文字表現の歴史がどういう風に進化していったか、そのうえで自分たちの仕事がどういう系譜に連なるものになるのか、歴史の中に自分たちの仕事を埋め込んでいこうとする意志がかなりあって、見る側にとっても、その人達がどういうものからデザインを学んでいったか、ネタ元が思い切り示されているので、その人達が何を新しく加えたのかが分かりやすかった。

正直、ほとんど過去の偉人のデザインをそのまま引用してるようにみえる作品すらあった気がするが、そういうのですら堂々と、ネタ元と自作を横並びで展示してあって、そのスタイルの普遍性を伝えているようで、清々しかった。それを見て、たしかに新しいものだけが価値を帯びるのでなく、すでにあった良質なものが失われずに受け継がれるだけでも価値があるとも思った。

誰もが誰かのスタイルから影響を受けていくものだが、この人達の展示は、それが2段階、3段階、それ以上に遡れるようになっていて、あくまで自分たちは無数の枝分かれのひとつというスタンスになっている。だから、あとからそれを見た人々に、まだ継がれていない枝の部分があることを感じさせて、その先の可能性を示唆しているところが、本当によい展覧会だったなと思う。。

サウンドデザインシンポジウム

昨年の話になるが、2016年12月16日に開かれたサウンドデザインシンポジウムin浜松というものに行った。なぜかネヴィル・ブロディ(というイギリスのかなり大御所のグラフィックデザイナー。前衛的なタイポグラフィ作品などで90年代に世界を席巻した。)が基調講演に来て、しかも無料だというので、応募して、聞きに行った。

サウンドデザインシンポジウムという、音関連のシンポジウムでなぜグラフィックデザイナーのネヴィル・ブロディが来るのだろうと不思議に思ったが、ブロディ氏は、教鞭をとっているRCAで、最近、「サウンドデザイン学科」という新しいコースを設立したらしく、視覚的なデザインだけでなく、音も含めて総合的なコミュニケーションデザインの領域を押し広げることに挑戦しているらしかった。講演のスライドによると、氏の専門であるタイポグラフィで、フォントが変われば伝わるメッセージが変わるように、音もメッセージに大きな影響を及ぼすはずで、それなしで新しいコミュニケーションデザインは作られないと思ったと言っていた。

サウンドデザインというものについては、Beyond composition(コンポジションを超えたもの。視覚的なレイアウトでは表現できないものという意味だろうか…?)、Perceived form(知覚された形。視覚以外のインプットでイメージされる形といった意味?)などと表現していた。

すでに作られた学生作品をいくつか紹介してくれていたが、それらがとても面白く、街中の構造物にマイクを付けて楽器化したり、貝殻に耳を当てると海鳴りのような音が聞こえるように、音響工学的に割り出された不思議な形状の彫刻を作って、それに耳を当てるといろいろなノイズが聞こえ、それらが海、森、都市といったようにストーリーをもって展開されていく一連の彫刻群など、見えていなかったものや、既存の何かを敢えて音に変換してみることで生まれるものを探求しているようだった。これについては、サウンドデザインの根幹をなす考えとして、これをSonification(音波化すること)と呼んでいるとのことだった。こうやって、ただ作品を作り出すだけでなくて、相当数のリサーチと、作品を作り出すプロセスを手法化し、Sonificationのようにシンプルな単語にまとめ、何を音波化したか、どうやって音波化したか、など、皆が作品を説明し合える基礎的土壌をつくった上で教育を行っているのが、やはり良いなと思った。新しい分野で、誰も何も良くわかっていないからこそ、皆で使える共通言語を作っていくことは有効なのだろうと思う。

講演が終わったあとに、少しだけ本人と話をできる機会があった。何か実際のプロジェクトで、このサウンドデザインの考えを実践した例があるのかと聞いたら、それは残念ながらまだ無いとのことだった。ただまだ何も確立されていないこの分野は、どのようにでも発展しうるし、そこを行くのが面白いとの事だった。ネヴィル・ブロディほどの知名度を誇り、数多くの達成をした人でも、そこにとどまらず未開の分野につっこんでいくのは、やはり期待を裏切らない感があった。

ちなみにこのシンポジウム自体は、浜松市がユネスコ創造都市ネットワークというものの音楽分野に認定されたことにより、2017年にサウンドデザインフェスティバル?なるものの開催を予定しているらしく、それに関連したウォーミングアップ的なものだったようだ…。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。久しぶりの更新になってしまいましたが、今年もどうぞよろしくお願い致します。

お世話になった人々に年賀状を出したのだが、なぜか一部が年内、クリスマス前あたりに届くという現象が起こってしまった…。宛先面には「年賀」と赤で書いてあるし、郵便局で係員の方に渡す際にも、年賀ですと言ったはずなのだが…。ちゃんと年明けに届いた人々もいるようなので、何らかのミスで一部が通常配達便に紛れてしまったのではと思っている。こういうミスがあると、出した年賀状の全てが本当に届いているのかどうかも、若干心配ではある。。

昨年は、大学卒業後から勤めていたソニーを退職して、赴任先のイギリスから帰国して浜松へ引っ越し、独立しての活動を開始したことで、環境が大きく変化した年になった。ソニーは、面白い人も多く、働きやすい会社だったし、3年間イギリスに赴任として送り出してもらえるなど、良くしてもらっていた。会社の業績が悪い年に入社したが、そこから7年、社内もどんどん変わり、徐々に上向きになっていくのも感じていた。ただ以前より、可能な限り一人でやれることは全て一人でやりたいと思っていたことに加え、またもろもろ興味のあるプログラミング、ジェネラティブアート、デザイン・芸術史、タイポグラフィ等の分野の学習と研究に割く時間のとり方の時間配分など含め、いろいろな意思決定を自分自身でできる状況で働きたいなと思っていたことから、退職してフリーになることを選んだ。

また、これはとても個人的なことになるが、退職に関しては、属していた企業があまりにも大きすぎて、自分が具体的にこの分野でこのように貢献している、というのが実感しにくかったということもあった。これは組織の問題ではなく、完全に自分の性格に起因するもので、昔から、自分は自己肯定感というものを持つことがほとんどできず、どれだけ自分が何かをやって、何らかの評価を得ても、それは外的要因によるもので自分の頑張りによるものではないと思いこんでしまうという、抜け出し難い思考の欠点を抱えていた。だから前職のような大きな会社にいると、自分のやったすべてのことは、たとえそれが規模の大きなプロジェクトで、自分がかなり意欲を持って取り組んでいたものだったとしても、すでに確立された会社の名前の上に成り立っているだけのものと感じてしまい、仕事自体は十分にやりがいのあるものだったのだが、意識の奥底で、自己肯定感の満たされなさをずっと感じてしまっていた。

この自己肯定感のなさというのは非常に厄介なもので、それは年齢を経ることで解消されるものかと思っていたのに、10代、20代、30代ときてまだ根強く残っていたので、さすがにこれと向き合わないことには、今後の自分の人生を生きるのに支障が出るのではと思った。自分は基本的に生真面目なので、前職の中でちゃんとやっていく事はできたとは思うが、やはりどうしても、この自己肯定感の欠乏を埋めないことには自分はまずいことになってしまうのではと思った。だから、一旦ゼロから何かを始めてみることで、それを克服したかった。

他にも大小様々な理由があるのだが、大きくはそんな理由で、自分は新しい目標をもって昨年の後半を過ごした。環境も、働き方も大きく変わったのだが、結構あっという間に過ぎてしまったので、まだ何か結果を実感できるというものでもないが、気持ちは非常に落ち着いているというか、自分の頭が回っていくのを少しづつ感じることが出来ているので、とりあえずこれで良かったのだと思う。

再びMacBook Pro (late2016) の不具合

こういう不具合ばかり何度も書くことではないのだが… 自分の身の回りにもこの機種を購入しようとしている人もいるようなので、一応、情報共有の意味をこめて、現在、自分の個体はこういう問題が出ていますということを記している。

Touch Bar付きMacBook Proについて、アップデートによりディスプレイの問題は解決されたものの、フリーズする回数が多くなってしまったのが少し困っている。特にAdobe InDesignを使用している際に、突然画面上の全てのボタンがクリックできなくなってしまう現象が何度も発生していて、アプリケーションの強制終了なども一切できず、電源ボタン(Touch IDボタン。ここだけはタッチパネルでなく指紋認証センサ付き物理ボタンになっていて、物理的に押し込めるようになっている。)の長押しで電源を強制的に落とす以外の解決策がない状態になってしまう。また、スリープから復帰する際に、なぜかOSに強制的に再起動がかかる現象も、まれにではあるが、すでに何回も発生している。

またTouch Bar自体の挙動も不安定で、本来、画面の輝度調整や音量調整のボタンが表示されているべき場面でも、何も表示されずブランクになってしまっていて、一回タップすると半分欠けたようなバグったアイコンが表示されるということも、よくある。

いずれアップデート等で解決されていく問題とは思うけれど、フリーズが頻繁に起こる状況は決して望ましいものではなく、まだソフトウェアは未完成なのだろうと思ってしまう。。もちろん見た目、薄さ、スペック等は(高いだけあって)不満はないのだが。。。

パラメトリック・デザイン 04:フォントのランダム割り当て

かなり時間が空いてしまったが、前回の続きで、illustratorのスクリプトを書くことでデザインのスタディ方法を、ちょっと向上させることについて書く。。

randomfonts

例えば、一般的に、デザイナーがロゴなどを作成するとき、使用するタイプフェイスをあれこれと試して、文字の形状が変化することで、言葉の印象がどのように変わっていくかを注意深く見定めて、最適なトーンを選んでいくという作業がよく行われる。自分の場合、作業に入る前に、大まかに頭のなかにイメージが出来上がっていて、だいたいこういう雰囲気のフォントを使おう、ということが思い描けている場合が多いのだが、それでも、ふと思い立って試してみた全然違う雰囲気のものが、意外とよく似合っているということもある。フォント選びにも、自分の癖のようなものが出てしまって、時折それが、硬直した思考を生んでしまうことがある。

そこで、自分は、作業に入る前に、文字列に自動でフォントをランダムで割り当てるスクリプトを使って、ざっと様々な雰囲気の文字を一覧してみて、意外と良さそうなものは無いか調べることにしている。こうやって文字列にひとつひとつ違うフォントを割り当てていくのは、手動でやると結構面倒くさく、パソコンの中には何百種類もフォントが入っているので、チマチマと割り当てているとすぐに時間が消えていってしまう。機械的な作業は、面倒なだけでなく、モチベーションも奪い去っていくので、極力減らしたい。だからそれをスクリプトでやる。そうすれば、何十種類ものバリエーションを、とりあえず俯瞰して見てみるのに10分もかからない。その中に、自分が思いつけていなかった可能性を感じるものを発見できたなら、それも検討案に入れていけばいいし、無ければ、ないで当初の予定のものを検討していけば良い。

本当にちょっとしたことではあるが、こうやって一応、簡単でも良いので、スタディの総数を上げていくことが、最終的なクオリティの向上に少し繋がると思っている。。

 

選択したテキストにフォントをランダムで割り当てるスクリプト

———-
var iCount = textFonts.length;
sel = activeDocument.selection;

for (i=0; i<sel.length; i++) {
var randomNumber = Math.round(Math.random()*iCount);
sFontName = textFonts[randomNumber].name;
textArtRange = sel[i].textRange;
textArtRange.characterAttributes.textFont = textFonts.getByName(sFontName);
}
———-

たったこれだけの、10行にも満たないスクリプトになる。
選択するとき、テキスト以外の要素もまとめて選択してしまうとエラーになるので、使用することがあれば注意してください。。

低温調理、漫画「めしにしましょう」

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以前に作った低温調理器は機があるごとに使用している。寝る前などに肉と器具を鍋にセットし、そのまま朝起きるまで数時間、低温をやり続けるというパターンで、ほぼ何もしていないのに勝手に肉が程よく煮えていくという利点を享受している。普段、時間もあまりないし、手間のかかる料理というのが出来ないのだが、寝てる間に勝手にその「手間ひま」がかかっていくという話であれば、やらない理由はない。

温度設定と調理時間のバランスは、もろもろ実験を続ける必要があり、ネットを見ていると、ハードコアな人たちは12時間を超えるような長時間の調理をやって柔らかさの探求に入っていったり、温度域を、殺菌できてるのかどうか怪しいレベルの50度後半などに設定して極限まで肉汁を流出させない世界に挑むなど、いろいろなデータが公開されている。

ちなみに、自分が肉の低温調理というものを知ったのは、2年ほど前から、漫画家の小林銅蟲氏のブログを読み始めたことによる。氏のブログは、漫画の話などほぼ存在せず、生々しい料理写真が前衛的な文章とともに大量に貼られているというもので、普段あまり目にしない、「肉塊」の写真が頻繁に登場している。それらの分厚いかたまりを低温調理にかけていく様が何度も紹介されていて、その過剰さに中毒性がある。

あまりに料理に異様な情熱があるので、それが漫画になってしまい、「めしにしましょう」という作品になってモーニングで連載されている。少し前に単行本が出たので、自分も買って読んだ。第一話からいきなり低温調理の話で始まる。(リンク先で第一話が公開されている)

上品な料理は出てこず、異常な厚みの肉を使った、断面のほうがでかいカツ丼など、勢いのある料理が多く登場して、空腹感を煽る内容になっている。過剰な品目ばかりで、「欲望に従ってレシピを組む」「えげつなく味をつける」「露骨な味付け」「脳汁」などといったワードが登場し、そのような特異な調理でしか得られないような満足感について書かれている。殆どオーバーフローしているような味付けのものがもたらす、不思議な充足感への憧れはわかる気がする…。自分はこの漫画はすごく楽しめた。

新macbook pro (Touch barつき)を使ってみて・追記

touch bar付きのmacbook pro、「macOS Sierra 10.12.2アップデート」を適用したことでディスプレイのちらつき問題は解消されたようだ。アップデートしていなくても、最近は発症していなかったが…。

代わりに、文字入力している際に、touch bar部分に変換候補(かなとか、カナとか、漢字の候補)が出なくなってブランク(空白)のままになってしまうという不具合が発生するようになった。

致命的な問題ではないとは言え、文章を打つときにそういう変換を一発で出せないのは若干使いにくい。これもすぐ解消されるといいが…

新macbook pro (Touch barつき)を使ってみて

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先月、新しいmacbook proを購入した。それまで使っていたマシンが古すぎたため、ずっと新しいモデルが発売されるのを待っていた。新しくなり、処理速度は十分に早くなったのだが、各所で言われているように、不満は結構ある。

このモデルは、Touch barと呼ばれるタッチパネル式の補助ボタン群がキーボード上部にあるのが特徴なのだが、使うシーンがほとんどない。それでいて、ファンクションキーやESCキーもそこに統合されたことにより、よく使うキーなのに物理キーでなくなってしまったことがやや使いにくく、わりとストレスを感じる。物理キーなら、いつも同じ場所に、同じ幅で存在するために、ノールックで打てるのだが、Touch barはボタン幅が可変なので、見て確認しないと打てない。

電源端子も、macbook伝統の、コードに足を引っ掛けても大丈夫な、マグネット式着脱システムmagsafeが廃止されてしまった。

また全てUSB-C端子化されたことで、今までの周辺機器を使うための変換アダプタがたくさん必要になった。

更に、(最近配信されたOSアップデートでやっと治ったらしいものの)ディスプレイのバグで、たまに画面が砂嵐のように荒れたり、チラつきが激しかったりした。

キーボードも、タイプ感がよくなったらしいが、パチパチ音が大きくなり、うるさくなってしまった。(そもそも殆ど一人で作業しているのに、うるさいも何もない気もするが、移動中などで使うときに気を使ってしまう。)

何となく、総合的に、前モデルの仕様でただ処理速度だけ上げてくれれば良かった気がする。

ここまで書いて、何か自分が過去をひたすら懐かしむ保守的な人のようにも思え、悲しさがこみ上げてきたので筆をおこうと思う。筐体のデザインや薄さは、相変わらずとても良いと思う。

関係ないが、筆をおくという表現が気になったので今調べたら、筆をおく、は「置く」でなく「擱く」という漢字をあてるのが正しいらしい。今まで知らなかった。。

lake

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歩いてすぐのところに湖と公園があるのは意外と良い。こういう写真だけ載せていると、かなりの僻地に引っ込んだと思われるのだが、これはそういう部分だけ切り取っているだけで、実際には家のすぐ前には交通量のそこそこある道路が走っているし、周りも住宅地なので家がたくさんある。ただ単に南側に大きめの湖があるので、そこを切り取ればこのように見えるというだけだ。

散歩をしていると、鳥の種類が結構多いような気がする。この日も、黒いカモがガアガアといって練り歩いていた。黒い鳥では、もちろんカラスが一番多い。と思う。

パラメトリック・デザイン 03:illustratorスクリプティング

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ちなみに、前回書いたような色をランダムに割り当てるだけのようなillustratorスクリプトであれば、以下のような数行のjavascriptコードで記述することができる。


sel = activeDocument.selection; //最初に色を割り当てたいオブジェクトを選択しておく
for (i=0; i<sel.length; i++) //選択されたオブジェクトの数だけ、色をランダムに割り当てるという内容を繰り替えす
{
newCMYKColor = new CMYKColor(); //色の変数を用意
newCMYKColor.black = 0; //この場合、黒は常にゼロにする
newCMYKColor.cyan = Math.random()*100; //シアンの値を0-100の間でランダムに決定
newCMYKColor.magenta = Math.random()*100; //マゼンタの値を0-100の間でランダムに決定
newCMYKColor.yellow = Math.random()*100; //イエローの値を0-100の間でランダムに決定
// 色の割り当て
sel[i].filled = true; //塗りを設定
sel[i].fillColor = newCMYKColor; //塗りの値に上記で定めたカラーを設定
}

このコードを、例えば「ランダムに色を割り当てる.jsx」などのファイル名で保存し、アプリケーションフォルダ内の、
Adobe illustrator > Presets > ja_JP > スクリプト
のフォルダに保存するだけで、illustratorメニューの、
ファイル > スクリプト
から、先ほどのランダムに色を割り当てる、というコマンドを呼び出すことができる。

ただランダムに色を割り当てただけだと、汚い色の組み合わせもできてしまうので、とてもそのままでは使えるようなものではないが、色の組み合わせなどのスタディのスピードを上げることはできる。
この例はとても簡単なものだが、スクリプトをある程度かけるようにしておけば、自分の発想を広げるツールになりうる。。

パラメトリック・デザイン 02:illustratorスクリプティング

パラメトリックデザインというのは、変数(パラメータ)を使って形状のデザインスタディを行う、あるいは最終形態自体が、固定的でなくて可変性をもったデザイン成果物のことを言うのだが、最初にこのような概念を知ったのは学生の頃だった。

未来を拓く建築システム より

「未来を拓く新しい建築システム」 より 鳥居の形状スタディ

確か、なんだったかCADの授業か何かで、「未来を拓く新しい建築システム」という本を読まされ、(読まされたのか、買わされたか、授業でコピーが配られたのか、もう忘れてしまったが…)あまりに直球なネーミングの書籍名に怪しさを感じ、たぶんコレで未来が拓かれることはないだろうと一瞬思ったが、その中には、神社の鳥居のような形状を変数によっていろいろランダムに変更していくスタディが掲載されていて、あ、自分が間違っていた、これはすごく面白いと思った。

本文中には、CADでないとこういう発想はしない、という記述があり、こういうデジタルツールの使い方は、アナログを便利に画面上に置き換えただけのものではない、デジタルならではのものになっている。

この本自体は随分むかし(2005年)に書かれたようだが、これは現代に至るまで重要な指摘だと思っている。デジタルツールは、紙の上でもできることを便利にパソコン上でできるようにしたという以上の意味を持つ。ただ、アプリケーションを普通に扱っていると、なかなかそういう発想を持つことは難しい。例えば、ふだんデザイン作業で使用するようなillustratorやphotoshopといったものも、基本的には、色を塗ったり、文字を配置したり、以前は紙の上で手作業で行なっていたことを、パソコン上で、修正なども便利にできるようにしたものであって、ツール自体もそういう発想で作られているから、使い方に個々人の幅があるとはいえ、ツールの使い方以上のことをするのはなかなか難しい。上述の本の中にも、「(ツールの)機能の限界が、そのままデザインの限界となる」という記述が見られる。

もちろんillustratorやphotoshopは、かなり汎用性がある完成度の高いアプリケーションなので、それで作れないものなど殆ど無いようなものなので、想像力さえあればなんでも作れるはずなのだが、人間の想像力というのは、よほどの天才でない限り、そこまで柔軟ではない。先入観もあるし、思い描く形状には、自分の「癖」のようなものもある。だから、デジタルツールには、ただ自分の頭を再現するだけのものでなくて、発想を助けてくれるような、良き助手のような働きを求めたくなる。それなのに、通常のillustratorやphotoshopは、上述の本の鳥居のような、アレコレと形状をいじくり回して、デザインのスタディを行う段階のツールとしては考えられていない。

randomcolor

ツールを、最初に想定された以上の使い方をするには、自分でプログラム(スクリプト)を書いて、ツール自体を変更するしかない。。ツール自体を改造することで、新しい形状の可能性を探す。例えば上の簡単な例では、色という要素をパラメータ化し、形に自動的にランダムな色彩を与えるプログラムを書いている。そうやって、色の組み合わせを考えることをコンピュータ任せにしてみると、自分ではふだん思いつかないような色の組み合わせが考えられる。自分のクセのようなものから抜けることができる。大量のスタディを行うのはコンピュータで、そこから選ぶのは自分、という作業分担ができる。

こういう、単に四角形に色彩をランダムに割り当てるといった簡単な例も、ツールに最初からある機能だけでは行うことができない。もちろん、手作業でひとつひとつ色を適当に割り当てていくことはできると思うが、そんな時間があるなら、寝ていたい。こうやってツールを拡張することで、より手軽に、無数の色彩スタディを行うことができる可能性を広げることができると思う。。

鍛冶町アクティビティセンター

鍛冶町アクティビティセンターというワークショップに参加した。

浜松の駅前に鍛冶町というエリアがあり、駅前なので数々の飲食店が立ち並ぶ繁華街なのだが、10数年前の松菱デパートの撤退のころより、駅前の空洞化が叫ばれており、さかんに地域おこし、再活性化が叫ばれている。その鍛冶町の可能性を模索し、具体的なプロジェクトを起こしていくという趣旨のもので、街中に住んでいる、いないを問わず老若男女さまざまな人が参加していた。

カードを使って、ゲームのような感じで、自分の身の周りに起きている面白い人や出来事を可視化し、いろいろな人のカードを混ぜてシャッフルして、偶発的にでた組み合わせから、具体的にプロジェクトを考えていくという、面白い発想法が用いられており、単独では一切考えつかないような組み合わせができるため、自分の認識がリフレッシュされる感じがして面白かった。

こういうランダム性を取り入れていくスタディ方法は、ある意味では、最近チラチラ書いているパラメトリックデザイン的な手法とも言える。

また1ヶ月後に続きのワークショップがある。

パラメトリック・デザイン 01:フォント自動生成ソフト

11月17-18日に、フランスのナンシーでAutomatic type design 2という、タイプフェイス(とデジタルフォント)を自動生成することについてのシンポジウムが開かれるようで、フォントの自動デザインツールであるprototypoの人などが講演するようだ。すごく面白そうなのだが、もちろん行けない…。あとで講演が動画などで公開されると良いのだけど…。

文字は、基本的に文字である以上、ある程度、形は決まっており、AはAという形でなければならない。だから、例えば、Aならば、3つの線の線幅や、傾き具合、横棒の位置、など、それぞれの文字を構成する造型要素を細かくパラメータに分解していくことで、それらを後から設定するだけで、全ての文字を手で書かなくても、ソフトで自動的に生成できるようになるのでは、といった試みがいくつかあり、そうしたもののひとつが、このprototypoというソフトウェアになる。

このシンポジウムでは、それがAutomatic type designと呼ばれているようだが、造型要素をパラメータ化して、何か新しい造形のバリエーションを探っていくという試みは、例えば建築分野ではパラメトリック・デザインなどと呼ばれていた。ジェネラティブ・デザインという呼び方も聞いたことがある。

そういった、コンピュータを使った造形手法は、自分も興味があるので、忘備録がてら、何回かに分けて、いくつかの状況をまとめてみたいと思う…。

 

prototypo

prototypoは、文字幅、Xハイトの高さ、アセンダー、ディセンダーの長さをはじめとして、セリフの形状、長さ、傾きやカーブの丸みなど、タイプフェイスを形作る様々な要素がパラメーター化されていて、それを画面上のスライダを動かして変更することで、オリジナルのタイプフェイスが動的に生成されていくというもの。
去年までベータ版が無償公開されていたが、今では月額課金制の有料システムとなっている。限られたパラメータのみ使用できる無料バージョンも、一応ある。(無料登録後にメールが来て、1回のみ有料バージョン状態で全てのパラメータを使った書き出しができるようになった。)

prototypo-official-beta

Adobe project Faces

ちなみに、ほとんど同じようなプロジェクトが、去年にAdobeからProject Facesとして発表されていた。発表時点では、パラメータの数は少ないし、まだ発展途上なのだろうという感じだった。

projectfaces

metafont, metaflop

このように、タイプフェイスを形作るさまざまな要素を数値化、パラメーター化して、それを変更することでフォントが自動生成できるのではという考えは、割と昔からあったようで、特に有名なものでは、1970年代から開発されていたmetafontという、フォントのベクターデータを記述するための言語がある。
これを使ったフォント生成システムはmetaflopとして公開されていて、セリフ付きのタイプフェイスには対応していないなど、後出のprototypoに比べて機能的には劣るが、その品質の低さが逆に面白く、ジャンク的なフォントをいろいろ作れるのに活用できる。
ボタン一発で、ランダムでパラメータを変更できるものが面白く、適当に生成されるフォントの中には、自分では考えつかないような見た目の、楽しいものもあって、そういう、想像を超えた偶発的なデザインができるのも、パラメトリックなデザインの興味深いところではある。

modulator-metaflop

Metapolator

このmetafont的な考え方に影響を受け、それを更にブラッシュアップしたものにMetapolatorがあって、これも、フォントの造型を形作る諸要素がすべてパラメータ化されていて、それをプログラムで記述して形状を変えていくようになっている。metafontが、かなり幾何学的にタイプフェイスをパラメータ化しているのに対し、こちらのMetapolatorは、カリグラフィ的な骨格、平ペンによる自然な線の強弱を再現しようとしているように見え、更には、タイプフェイスデザインにおいて絶対に必要な「錯視の補正」、とくに直線が曲線に切り替わりをスムーズに見せるための、微妙なカーブの補正などが利くようになっているようにも見える。細かいところは検証していないので、確かではないが…。

metapolator-object-model-developer-tool

まとめ

このように、タイプフェイス、フォントを手軽にカスタマイズしようとする試みは多くあって、まだ発展途上ながらも、ちょっと見た目を簡単にプロトタイピングする用途には使えそうだ。ただ、そのどれもが、人の手で作ったフォントの品質にはまだ達していない状況にあるように思う。タイプフェイス、特に本文用の、読み物に使われるものなどについては、読むときに、余計なノイズが気にならないように、文字一つ一つのカーブや線幅などが、丁寧に錯視補正されているのだが、その補正加減はかなり人間の職人技によるところが多く、それを単純なパラメータで自動的に行うことがまだ難しいのではないかと思われる。
また、Atyplでのこの動画の最後のほうでMonotypeのToshi Omagari氏が指摘しているように、スペーシング(文字と文字の間隔を適切に設定すること)についてのパラメータが一切ないことも、品質に関わる問題のひとつのようだ…。確かに、文字自体の形そのものと同じくらい、文字間隔の調整は、文章の可読性に影響する。

ただ、そういう職人的な錯視調整さえ、技術が進めば機械学習などで、過去の高品質なタイプフェイスをすべて読み込ませて、カーブの処理の最適値などを割り出すことはできる気がする…。

ゲーム写真家という人々

世の中には多くのゲーマーがいるが、写真を撮るためにゲームをプレイする、ゲーム写真家という人々がいる。何のことか一瞬分からないが、要はゲームのスクリーンキャプチャを美しく撮ることに情熱を傾けている人たちのことで、昨今のゲームはCGの表現力が尋常でないほど良くなっているため、また、広大なマップを好きなように散策できるオープンワールドタイプのゲームも多いために、美しい景色を探してゲーム内を歩き回るといったことが可能になっている。動きの速いアクションゲームなどでも、画面を一瞬制止させて、スクリーンショットを撮るためのベストアングルを決められる、「フォトモード」を搭載しているゲームもあるようだ。(リンク:『Uncharted 4』をPS4のフォトモードでプロ写真家が撮影、スクリーンショットというアートの世界)

以前に自分がプレイしたゲームでも、FIREWATCHというゲームなどは、確かに画面が異常に美しく(リアル感はないが、あえてアニメ調にデフォルメされた質感がまた素晴らしい…)、スクリーンキャプチャをするベストなアングルを求めて森の中をさまよったりした。(ネタバレになるが、このゲームに関しては、ゲーム中に使い捨てカメラを入手することができ、公式に画面を撮影することができるようになる。その撮影した写真がエンディング中に、思い出を振り返るように流れていく、とても良い演出がある。)

このゲームに関しては、ストーリーも面白いものだったが、やはりプレイした後にも思い出すのは美しい自然公園の風景であって、森の木々の隙間から指す光がきれいだったななどとしみじみと思う。。ゲームでそんな事をせず、現実で写真を撮ればいいのにという意見はもっともだが、美しい情景に出会うと現実だろうがゲームだろうが記録に残したくなるのは、本能的なものだと思う。

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ありんこオフィス

先週、しばらく東京に滞在していたのだが、打ち合わせと作業スペースとして、渋谷にあるありんこオフィスというコワーキングスペースを利用した。雑居ビルの一室にあり、特段きれいなわけでも、何か特徴的な設備があるわけでもないが、必要最低限、高速WiFiと、フリードリンクがあり、1時間当たりの使用量もそんなに高くなく、ちょっとした出先での作業時には悪くない感じはした。渋谷にはしゃれたものから、スタンダートなものまでいろいろなコワーキングスペースがそろっているので、また別なところも利用してみたい・・・。

Adobe InDesign 2017 アップデート

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AdobeのCC製品のアップデートがあり、Photoshop, illustrator, InDesignなどのソフトウェアが2017年バージョンになった。地味に、いくつかの機能がアップデートされており、特にInDesignで、線の両端に付ける矢印の大きさを拡大縮小できる機能がやっと搭載されたのは、うれしい。かなり地味ながらも、illustratorには以前からずっとあった機能で、よく使うのだが、InDesignにはなぜかずっと無かったので、悩みがひとつ解消された。

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低温調理器を自作 02

前回の記事の続き。低温調理器を5-6000円程度の材料費でDIY製作する工程。Anovaの4分の1ほどの費用で作成可能。
(もしこの記事を参考に制作をする場合は、100V電源を扱うので、一応、細心の注意を払って、配線間違いなどないようにしてください。自己責任でお願いします。)

用意する部品

・サーモスタット
・ヒーター
・ポンプ
これらは全てアマゾンで調達する。この記事(御食事件:低温調理器を自作する)にリンクが貼られているので、全く同じものを購入した。
(ただしポンプはACアダプターが付属していないので、5.5-12VのACアダプタを別途用意する必要がある。このへんのアダプタで動作すると思う。自分が使ったのはこのアダプタ

・0.5m延長ケーブル 2個(2口以上の口があるもの)
・絶縁ビニールテープ
・適当な大きさのタッパー
これらは全て100均ショップで購入した。延長ケーブルは、1m以上の長さがあれば、1個で済むが、100均では0.5mのものしか売っていなかったので、ケーブルを取る目的で2つ買った。

総計で6000円程度。

作り方

延長ケーブルを分解して配線を繋ぎなおし、サーモスタットの裏側端子につなげるだけ。

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全体の配線はこのような感じになる。

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延長ケーブルを切断。メスのほうは今回使わないので廃棄した。

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もうひとつの延長ケーブルも切断。こちらは更に10cmほどの長さのケーブルを切り出す。

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10cmの断片を割って、中の電線を取り出す。

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一本はそのまま、もう片方は更に2分割し、上の写真のように皮をむく。
片方は5mmほど(サーモスタットにつなぐ側)、もう片方は15mmほど(他の電線とねじってつなぐ側)露出させた。

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延長ケーブルのほうも先端5cmほどを皮をむいて、上の写真のように電線を露出させる。

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ケースとして利用するタッパーに適当なサイズの穴を空ける。別にケース要らない人は無しでよい。今回は見た目を気にしないのでかなり適当にやっている。

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サーモスタット、ケーブルを入れる。

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上に掲載した配線図のように、切り出した電線類を繋いでいく。繋いだ部分は絶縁ビニールテープでぐるぐる巻きにし、はずれないようにする。

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絶縁テープも普通に100均で売っている。

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サーモスタットの端子に差し込み、上部からドライバーでネジをまわして、抜けないように固定する。

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完成。たこ足コンセントのほうに、ヒーターとポンプを普通に差し込む。センサーとともに、鍋の中に投入し、問題なく動くことを確認した。

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サーモスタット側の温度を設定すると、その温度以下のときは電源がONになりヒーターとポンプが稼働し、設定温度を超えると電源がOFFになる。それを繰り返して温度を保つ。

サーモスタットのヒステリシス設定(設定温度から何度下がったら、電源をONにするかの設定)を初期設定の3度→1度に変更して、精度をやや高めている。
Anovaなどは、0.5度刻みで温度を設定できるようだが、自分の使用用途ではそこまでの精度は必要ないだろうと思う。

テスト調理

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テストとして、300gほどの豚バラ肉を、63度で4時間ほど放置してやってみた。柔らかく、非常によい感じの仕上がりになった。とても簡単で良い。

(63度というのは、一応、肉が固くならない65度以下で、殺菌に必要なギリギリの温度ということで、その設定にしてあります。よりよい柔らかさを求めるハードコアな低温調理者の人たちは、58度とか、より低い温度域でやっているようで、そのへんだと更にしっとりした仕上がりになるようですが、殺菌が出来ない可能性もあるので、自己責任でやっているようです。)

今後も活用できればと思う。

低温調理器を自作 01

肉の低温調理

自分は別に料理好きでも何でもないが、2,3年ほど前から興味を持っている料理の手法に「低温調理」というものがある。詳細は他サイトでいくらでも解説されていると思うので、割愛するが、要は低温(60度前後)で数時間かけてじっくり肉に火を通すことで、安いガチガチした肉でも、パサつかず、やたら柔らかくおいしく仕上げることが出来るというもの。

自分は、手のかかる料理というのにはあまり興味がないのだが、この手の「ほったらかしておくだけでどんどんおいしくなる」系の料理には興味があり、過去にも、煮込みをガス代もかからず手軽に行うことのできる魔法瓶鍋などを購入し、現在も活用している。自分が何か別の作業をしている間に、料理が勝手においしくなっていくという状況は、自分にとっては、時間を倍増させているというか、人生が二倍になっているという感覚すら感じるものがあり、素晴らしいと思っている。ずっと見張っていたり、ひたすら工程が多くて手のかかる料理などは、時間を無駄にしているようにも感じてしまって、よくない。

しかし、肉の低温調理というのは、1度単位でのシビアな温度管理を長時間(2時間以上)つづける必要があるため、手動でやると、ひたすら台所に張り付いて、温度計を見て、火をつけたり止めたりを繰り返すという、まさに自分の最も嫌う状況を作り出してしまうので、機械によって自動化する必要がある。

なぜ1度単位というシビアなコントロールが要求されるかというと、理屈としては「Cooking for Geeks」という料理科学本にくわしいのだが(またはkwappa氏によるこのスライド)、要は

・肉のタンパク質に含まれるミオシンとかいう成分が、50度以上で変性をはじめ、うまみを感じる成分に変わる

・コラーゲンは56-62度の温度域で十分な加熱をされると、柔らかく変性する

・しかし、66度以上になると、アクチンという成分の変性が起こってしまい、水分が出て肉がジューシーさを失い、どんどん固くなっていく

という話なので、

・65度以下の温度でひたすら肉を長時間煮るのがベスト、66度以上には絶対に上げてはいけない

ということになる。

このように、温度管理を間違うとすべてが終わる状況下のため、低温調理をやる者たちは、ひたすら鍋に張り付くとか、温度調節のできる温水器でお湯を垂れ流し続けるとか、もろもろの努力をはらってきていたようだった。

だが、2,3年前にAnovaという、低温調理専用の、鍋にアタッチして使える温度調節器具の真打ちが登場し、温度管理を全自動で行えるために、それさえあれば、まさにほったらかしておくだけで、ジューシーな肉が完成するという状況が作り出せることになった。

低温調理器の本命Anovaは高いので、自作へ

ただAnovaは円高の現在でも2-2.5万円と安くはなく、自分の場合、飽きる可能性もあるし、買うのをずっとためらっていた。

しかし自作なら安く作れるのでは?と思い、ググったところ、やはり既に自作している人がいて(リンク:御食事件 低温調理器を自作する)、これだと5000円程度で作れるようだった。この人の天才的なところは、サイトには明言はされていないが、「低温調理器って要は熱帯魚の水槽の温度管理システムと同じでは?」と考えたところで、実際に熱帯魚水槽用のヒーターとポンプ、サーモスタットを活用し器具を制作していた。

自分もこの人のやりかたで、低温調理器を自作した。作業時間は、2時間もかかっていないくらいであっさりと完成した。

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早速、63度で4時間ほど、豚バラをやってみたが、ほったらかしておくだけで、非常に柔らかく、おいしい仕上がりとなり、満足している。

一応、誰か作りたい人がいるかもしれないので、この器具のDIY工程を細かく書いていこうと思うのだが、記事が無駄に長くなりそうなので、その過程は次の記事に回そうと思う。

Startup Weekend Hamamatsuに参加してみた

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28日~30日にかけて、Startup Weekend Hamamatsuというイベントに参加していた。ハッカソン、アイデアソンの一種で、週末の3日間で、参加者が何人かのグループを作って、サービスのアイデアを立案し、疑似的に企業企画書の作成からプレゼンテーションまでを行うというイベントだった。スタートアップ・ウィークエンド自体は、世界のいろいろな国で行われているイベントで、東京に居たころにも案内を見たことがあったので、知っていたのだが、参加したことはなく、今回浜松で行われるというので、どんなものなのかと試しに参加してみた。

フィールド・ワークが全てという価値観

結論から言えば、フィールド・ワーク主体で、現地調査とインタビューに100%の力点を置くアイデア立案のやり方は、なかなか面白くて勉強になった。ファシリテーターの人が何度か繰り返していたが、「自分で思っているだけのアイデア、チームメンバーが会議室で話しているだけのアイデアはすべて妄想とする。価値はないと考える。」というやや極端な前提にたっており、「自分自身の着眼点」みたいなものは一切、信用せず、必ず、そのサービスの想定利用者となる人たちの声を聞き、彼らが問題に感じていることをどう解決するかにフォーカスするという、完全リサーチベースのアイデア立案手法を学ぶという場だった。

そのフィールドワークも、極端に言えば、現場の人に、「何か困ってることはありませんか」と直で聞くようなスタイルで、問題点の発見は外部にゆだね、それの解決策を考えることのみに集中することで、素早くクリティカルなサービスアイデアにたどり着くという考え方のようだった。問題への着眼点にこそ、オリジナリティが必要で、自分自身の独自性を出すという考え方も、世の中にはあるので、それとは真逆のもので興味深かった。

学びはチームに依存する

やり方を学ぶ、と書いたものの、イベント自体は、運営側がアレコレ指示したり、レクチャーするような場面はほんの少ししかなく、参加者主体で行われるものなので、参加すればある一定のメソッドが必ず学べるという類のものではないと思われた。今回は、たまたま自分のチームに、リーン・スタートアップ等の研究をしていて、メソッドに詳しい大学院生がおり、彼が結構、行動を促したり、考えをまとめるための専用のシート等を持参してくれたりしていたので、やり方を学べる形になったが、何を学び何を得るかは、チームに依存する気がした。

疑似か、本気か・・・

今回の参加者の中で、持ち寄ったアイデアをつかって、実際に起業したいと考えていた人はほぼいなかったように思う。自分も、今回のイベントを、あくまでリーンスタートアップ式のサービス作りのやり方を体験する疑似的なワークショップとして捉えていて、何かここでビジネスチャンスを掴んで実際に起業してやろうという気は、無かった。
ただ、主催者側のイベント趣旨としては、実際の起業家を生み出すという目的があったらしいので、その点では温度差があったのかもしれない。もっとも、本当に起業家を産み出すための実践的なイベントだったとしたら、参加者への事前課題や、専門家たちの厳しいチェック等が必要なのは明らかだから、運営側としても、今回のものはそこまでシリアスでないワークショップ的な意味合いでやっていたのかもしれない。
或いは、シリアスなものにするか、疑似的なものにするかは参加者しだい、意欲次第で白くも黒くもなるという傍観者スタンスを意図的にとっているのかもしれない。参加料を支払うとはいえ、NPOで行っているイベントなので、コテコテの有料セミナーのようにはしたくないのかもしれない。全て憶測にすぎないが・・・。

参加者たち

今回は20人程度の人々が集まっており、参加していた方々は、学生もいたし、自分のような個人事業主もいたし、企業に勤めていて、新規事業立案に携わっているような人もいたし、モノづくりが好きで興味を持ったという人もいた。予想していたより人が集まらなかったのか、運営側の人たちも何人か参加者側に回っていた。

できたもの

自分たちのチームは、Yes/Noクエスションによる本のリコメンドサービスを作成した。

bookconcierge

図書館によく通っている自分が、本の返却時に関連書籍をオススメしてほしいと思ったことを発端にしたアイデアで、当初は、Amazonの「この本を読んだ人はコレも読んでいます」的なものを図書館でやろうとしたが、それは実際のフィールドワークで、図書館は個人情報保護の観点から本の貸し出し履歴を一切ログしていないこと、分析もやっていないことが分かってボツになった。そこで、ログを必要としないもので、何か学びたい分野がある時に、そのキーワードを入れると、その人のレベルに合わせて、「最初の一冊」となる適切な本を一冊だけオススメしてくれるというサービスになった。

キーワードを入れると、いくつかのYes/No形式の二択質問が生成され、それに画面スワイプでサッサッと10問くらい答えていくと、その人のレベルとか適性が判断され、最適な入門書が一冊選ばれるという仕組みになっている。(画面はあくまでモックアップで、実際のシステムなどは作られていない)

Webサービス、および図書館や書店に置かれる情報端末としての利用を想定。

おわりに

2.5日間くらい、ずっと連続して行われるイベントなので、結構疲れたが、自分にとっては、新しい発想のやり方を知る良い機会となった・・・

静岡文芸大図書館

最近は、持ち物をなるべく減らしていきたいという意向もあって、以前は購入しまくっていた書籍も、買わずに図書館にあるものは図書館で借りて読むようにしている。資料的価値の高いビジュアル本などは、相変わらず購入しているが、読み物系の本は、とりあえず買う前にカーリル等の図書館横断検索サービスで検索するようにしている。

浜松市の図書館は、意外と品ぞろえは良いのだが、自分の読みたい芸術系・建築系の専門書籍についてはやはりあまり数は多くなく、難しいものがあると思っていた。しかし、今日、駅近くにある静岡文化芸術大学の図書館が一般利用できるという話を聞いて、行ってみたところ、充実した品ぞろえで、しかも館内利用だけでなく、貸し出しも可能で、かなり素晴らしい読書ライフが送れそうなことがわかった。

少なくとも自分の出身大学は、学外利用はかなり制限されていたし、貸し出しなどは一切行っていなかったので、まさか大学図書館が一般貸出を行っていると思わなかったが、調べてみると市内の他の大学も一般利用ができるようだった。知らなかった・・・

Microsoft Surface Studio, Surface Dial & Mental Canvas

Microsoft Surface Studio & Surface Dial

Microsoftの新しいコンピュータ、Surface Studioが発表された。同時発表された新しい入力デバイスSurface Dialも合わせて、凄く面白いプロダクトだと思った。

パッと見はAppleのiMac的なオールインワンタイプのコンピュータだが、モニターが28インチと巨大で、4500×3000ピクセルもの解像度があり、チルト可能で、更にタッチ&ペン入力に対応し、まるで紙に描くように、絵を描いたり図面を描いたりできるようだ。(ちなみにiMacは最大のもので27インチ、解像度はiMacのほうが上で5120×2880ピクセル)

特にSurface Dialという新しいデバイスがいい感じで、手のひらに収まるシンプルな円筒を、画面の上に置くと、そこからメニューやカラーパレットなどがブワッと表れて、直感的に画面を回転させたり、描きながら色を連続的に変化させたり、できるようだ。

こういうダイアル型インターフェイスは、数年前から、例えばメディアアートの展覧会などで、今までも同様のコンセプトを持ったものが多数発表されていたと思うが、ついに手元に降りてきたという感じがする。

通常、パソコンでドローイングだったり3Dモデリングしたりする際には、左手がキーボートに常に添えられていて、各種ツールをキーで切り替え、右手のマウスやホイールで実際の線を描いたり位置を決めたりする。マウスは、「連続的な変化」を扱えるツールだが、キーボードは、押したか押してないかという、「ゼロかイチかの変化」しかできないデバイスなので、必然的に、左手はモード切替、右手で細かい選択と描画、といった役割分担になることが普通なのだが、Surface Dialは、左手でも「連続的な変化」を可能にするツールなので、左手の可能性が増えて、右手を描くこと等のクリエイティブな要素のみに集中させられるように思う。

Mental Canvas

映像の後半で紹介されているMental Canvasという新しいドローイングソフトもかなりいい感じで、平面のドローイングを描きながら、それが(たぶん)半自動的に3D空間に変換されていって、手書きのスケッチの中を歩き回るように探索したり、後から構図を変えたりといったことができるようだ。Microsoftは以前からPhotosynthなどの、写真を自動的に立体化する技術を持っていたので、それを手書きスケッチに応用した感じなのかなと思う…。手書きの建築スケッチが、その場で広がりを持った空間に変換されるのは面白そうだ…。

昨今は、こうしてデジタル技術が、アナログなインターフェイスや表現を基盤にしながら、アナログだけでは絶対に制作不可能な領域に表現を進化させていっていて良い。。

レクチャー

chair

先週のことになるが、ある専門学校でレクチャーをする機会があった。インハウスデザイナーだったころの経験をもとに、企業の中でデザイナーがどういう役割ができるのか、ブランディングとは何かなどの内容を話した。学生も熱心に聞いてくれたようで、良かった。普段、わりと口数少なだと思われることが多いが、こうやって何かを話したり、そのための資料をいそいそと集めたりするのは結構好きなほうだと思う。。

美大出身でないデザイナー

brush

自分は美術系の大学を出ずにデザインの職についたのだが、やはりデザイナーというと美大を出ている人が多いので、たまに同僚たちとの会話や、デザイナーの集まりなどで、出身の話になることがあると、やや冷笑された感じで、「頭いいんだね」などとからかわれることが、ある。。さらに、自分の好きな美術やデザインが、バウハウスだったり、今まで紹介してきたようなタイポグラファだったり、理知的に造形や美術を押し進めた人たちだったりするので、そんな話をすると、頭でっかちでつまらんといったコメントをもらうことも、ある。

もちろんそう思う気持ちもわからないでもないし、美大の受験理由の上位には常に、「勉強がきらいだったから」というのが入っているはずなので、構造的にそういうコメントが出るのはしかたがない。

ただ、それでも自分は、見るからに感情的で、直感のままに何かとてつもないものを生み出すタイプの人より、やたら理性的なのに、理性的に考えを突き詰めた結果、ある異常な地平に出てしまったといったタイプの表現者に惹かれる。理知的に狂っているという状況が、とても魅力的に思える。音楽などでもそうで、いかにもロック的な見た目の人たちがロック的な音楽をやっていても面白さを感じないが、おとなしそうなガリガリの若者がいきなり破壊的なノイズミュージックなど演奏しだすと、心が躍る感じがする。理性によって、感情だけでは開けない地平に出た感じがする。

それは結局はギャップに惹かれているという話なのかもしれないが、、直感よりも、理性によって異質なものを生んでいくことが面白いと感じる。建築家なんかは、そういうタイプの人が多く、理路整然と自作を解説しているが、その対象の作品がとても見たことが無いような異常な空間だったりして、まさに理知的に狂っているという感じがして、本当に面白いと思う。

清原悦志:タイポグラフィに興味を持ったきっかけ 09

この、タイポグラフィの~シリーズ、なんとなく固い話が多くなるので、いったい誰が読んでいるのかという感じなのですが、、、自分では書いていて結構たのしいので、もう少し続けます。。

清原悦志のレイアウト

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思潮5号 1971夏 より

朗文堂では、緻密なエディトリアルデザインで知られる白井敬尚氏が講義を行った回が数回あったのだが、その中で、氏が参考として持ってきてくれていた70年代のとある雑誌があった。

それは「思潮」「牧神」といった文学・文学批評の雑誌で、内容は、このようなアカデミズムが力を持っていた時代特有と思われる、難解かつやや哲学的なテーマを扱った雑誌という感じだったが、パラパラとめくると、すぐにその際だった紙面のレイアウトに目を奪われた。

とにかく余白の取り方が独特で、大胆に下部が空白のまま残されていたり、ノンブル(ページ番号)が左上に2ページ分まとめて記載されていたり、何の図版もない文字だけのページなのに、絵画を見ているような造形的な美しさがあった。これは清原悦志というデザイナーの手によるレイアウトで、すでに亡くなられてしまったが、文字が主体の雑誌が多く発行されていた7,80年代に、この透明感と緊張感のある紙面設計で活躍していたデザイナーとのことだった。

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牧神12号 1978年 より

文字のレイアウトによる遊びで、紙面にリズムを出して飽きさせないようにするといった手法は、一般に雑誌などで行われていることだが、この人のレイアウトは、単に形としてレイアウトで遊んでいるという感じでなく、読み手が文章に引き付けられていくような、文字が、文章がとにかく美しく読みやすく見える感じがあった。

それがなぜなのか、一見して自分には理由が分からなかったのだが、「活字の正方形グリッド」を活かした設計になっていることが、このクリーンな印象を作っているひとつの要素だとのちに知った。

規律のある紙面設計

日本語のこうした文章用の書体は、縦組みでも横組みでも使えるように、「正方形」に収まるように作られているので、それを並べていくと、必然的に文字は規則正しく等間隔に並び(ベタ組みといわれる状態。大別するとベタ組とツメ組のふたつがあるが、どちらも利点と欠点がある。)、正方形のグリッド上に配置されていく。その正方形グリッドと、行間のスペースを、ひとつの単位として、文字ボックスの上下左右の余白もそれの倍数となるように調整していくと、紙面全体がひとつのリズムで統制されたものになる。その規則正しいリズム、構造をつくったうえで、余白の操作を入れているので、ただ形で遊んでいるだけで読みにくい紙面でなく、文章を引き立てる独特の透明感のある紙面が作れるのだと分かった。

そもそも本の判型すら、A5とかA4とか、そういう一般規格化されたものでなく、そのグリッドに従って、その規律に合うようなサイズに調整されている。

この清原悦志のやっていたデザイン会社の名前も、「株式会社 正方形」というらしく、この人の哲学が簡潔に表されていると思って、すごい名前だなと感心したことを覚えている。。

ちなみに清原悦志は、先述した北園克衛の主宰していたVOUという詩人のグループに所属しており、そこではoptical poemといった、言葉と視覚の新しい融合した形を模索する創作がなされており、そこで北園が行っていた、紙面と文字のバランスをどうとるかという実践から、かなりの影響を受けていたようだ。

紙面を、構造をもって設計していくというこういった手法は、当時、建築設計を学んでいた自分にとって、何か近しいものを感じ、とても腑に落ちるものがあり、これまでのもろもろの学びがリンクしていく感じがして、よりいっそうタイポグラフィやレイアウトに関心を持っていくようになった。。