ブログ

ブログの更新が止まって1年以上が経過していた。その間、割とずっとバタバタと忙しく、ブログのことは気にかけつつも放置してしまっていた。

このサイトには、未だにかつて作った自作の安価な低温調理器の記事が多く検索に引っかかるようで、毎日複数のアクセスがあるようだ。あれを書いた2016年には、低温調理器というと当時3万円弱したAnovaぐらいしか無かったので、たかがセンサー付きヒーターに何万か払うのは癪だし、自分で作ったほうが面白いと考える層がたくさんいたのは理解できる。だが、2018年現在では複数のメーカーが同じような製品を出しており、安いものでは7000円程度で買えてしまうから、コストパフォーマンス的には自作の低温調理器を作る意義はかなり薄れているとは思う。それでも、あの記事が、「買ったほうが早いし安い」という状況下のなか、あえてDIYすることを選ぶ方々の一助となっているのであれば嬉しくは思う。

SNS広告とAIの昨今のニュース01 : Facebookの脳科学研究所

先日、人とFacebookのmessenger通話で会話していると、その人のInstagramのフィードに、会話中に出てきたワードに基づく広告が次々と表示されるということが起こった。自分はInstagramに登録していないので、その現象を確認できなかったのだが、会話中に「X JAPAN」「ドラゴンボール」というワードが出てきた時に、それに追従するようにYOSHIKIやドラゴンボールの広告フィードが現れたという。自分がほとんど意味なく、「X JAPAN」と発したことで、相手のInstagramに無駄に目立つYOSHIKIを表示させてしまったことは少し申し訳なかった。

リアルタイム音声解析による関連広告表示というのは、技術的には存在していることは知っていたが、プライバシーの問題から実践には結構な障壁があると思っていたので、このように関連広告が普通に表示されたことに少し驚いた。

InstagramはFacebookのやっているサービスなので当然、関連するし、Facebookは人々の投稿した膨大なテキストや写真などを分析して、ユーザーの嗜好に合わせた最適な広告フィードを出すアルゴリズムを常に研究、実践しているので、messengerの会話をリアルタイム音声分析することなど当然やっていることだろう。ただ実際にそれをやるには、先にも述べたようにプライバシーの問題でユーザーからの反発が大きいだろうから、今回は小規模なランダムテスト的にやっているのではと思われた。

from ADWEEK website

先月、ADWEEKというニュースサイトで、Facebookが、ニューヨークにThe Center for Marketing Science Innovationという、脳神経科学を駆使したマーケティング分析を行う研究機関を設立したという記事を見た。記事によると、アイトラッキング、皮膚反応、心拍数、表情などのユーザーの生体データを測定して、ニュースフィードや広告がどのように人間の感情に影響を与えているかを研究しているという。この手の研究期間は、新しいものではないけれど、ここ数年で急激にポピュラーになってきていると、記事には書いてある。

確かに広告の効果測定の手法については、グループインタビューやユーザーによるアンケート調査などが、いまだに一般的だ。実際に製品を買って欲しいターゲットの人たちに、直接聞くのだから、結果に信憑性があると考えるのは自然だが、それらのユーザーインタビューというのは結構ブレがあり、実際そんなに効果を発揮しないケースがたくさんあることも、良く知られている。

このユーザーインタビューなどを行った際に、広告代理店などがまとめるリサーチ結果に必ず含まれる用語で、もはや広告業界では死ぬほど使われている「インサイト」という言葉がある。

「インサイト」というのは、「(調査を受けた)ユーザー本人すら気付いていなかった、そのユーザーが本当に欲している何か」みたいな意味で、例えば、人気の喫茶店があって、なぜその店だけがやたら人気なのか調べたところ、皆が「コーヒーがすごくおいしいから」みたいなことを回答したのに、「イヤ、実は店の人気の原因はそこではないのだ、実はその店の回りには人々が腰を落ち着けて休める場所がほとんどなかった、カスタマーは実はコーヒーを味わいに来ているのでなく、ゆっくり休める快適なソファのある店を求めていたのだ。」みたいな感じで、隠されていた(とされる)潜在的欲求のことをいう。

アンケート結果をそのまま信用することはせず、これはタテマエで、本当はこう思っている、ということをやるのだから、良く考えてみるとトリッキーなことではある。インサイトという考え方は本当にもうどの広告会社もやることなのだけど、アンケート上、誰も口にしていないようなことを、「実はユーザーが本当に感じていること」として抽出するというのは、普通に考えれば結構あやふやなことだ。そのユーザーが本当に感じていることというのは、もちろん緻密な心理学的分析に基づくものではあると思うのだけど、どうやっても言ってしまえば空想の域を出ない。

今回のこのFacebookの脳科学センターのような試みは、そうした既存の心理学的なアプローチでのあいまいな「インサイト」に対して、生体学的に、「今度こそ本当のインサイト」を見つけ出そうとするもののようだ。何かの情報を見た時に、生体として「ある色を見た時に脳のある部位に電気信号が発生」とか、「この文章を見た時に発汗あり」とか、「口では快適と言っているのに脳はストレスを感じている」とか、被験者本人の体の反応を直で読み取るプロセスなら、今までのような、本人以外の第三者が、その人が本当は何を考えているのかを空想する、というプロセスよりもずっと正確だろうという考えは理解できる。しかもそれらの調査はただ生体反応を見るだけではもちろんなくて、Facebookのもつ世界最大のユーザーデータベースと組み合わせれて、実際にどのような購買行動があったかなどにも紐付けられるので、その精度の飛躍的向上は、確かに期待できる。

 

長くなってしまったので、記事を次に続けようと思う。

最近は、こうした脳科学やAIによる新しい広告やマーケティングのニュース記事を大量に見かけるようになった。次はSNS広告、AIによる自動コピーライティング、Google Home、聴いている音楽から性格判断を行うSpotify.meなどについて書きます。

「お茶殻をつかった日干しレンガづくりのワークショップ」に参加しました

先日、告知した「お茶殻をつかった日干しレンガづくりのワークショップ」に行ってきました。暑い中で、大変でしたが他の参加者の人々と、ひたすら土を枠に詰めて棒で叩いて固めていくという作業を一日じゅうやっていました。普段運動していない弱い体だったので、中腰の体勢で棒を力強く何千回と打ち付けまくるハードワークで体が悲鳴を上げましたが、それでも何とか出来上がった数十個のレンガを見ていると、気持ちのよい達成感がありました。実際に立体物ができあがる瞬間はよいものです。

今回のイベントは、秋に行われる、かけがわ茶エンナーレというお茶を使ったアートイベントで使われるレンガをつくるという趣旨のものでした。何度かのワークショップでつくるレンガを使って、小さな茶室を作るようです。日干しレンガはもともと、藁などを混ぜ込んで強度を上げるようですが、お茶がらを混ぜ込んだものでも、同様に強度が上がることを実験によって証明した上で、今回の計画を練り上げていったようです。

翌日も別の場所で同じようにワークショップが開かれたようです。家族連れなどがたくさん参加したみたいです。

OK Computer OKNOTOK

何の脈絡もなく音楽の話をする。先日、Radioheadのアルバム「OK Computer」の発売20周年を記念して、全曲リマスターと未発表音源を追加した記念盤、「OK Computer OKNOTOK」が発売された。いつも音楽を聴いているストリーミング音楽サービスのSpotifyにもその音源が追加されていたので、改めて聴いていて、やはり素晴らしいなと思うのだが、中でも、個人的に一番好きな曲「no surprises」を何度もリピートして聴いた。。。

no surprisesは、曲調もさることながら、歌詞が良く、全体的に「こんなはずじゃなかったのに」という後悔や諦念が穏やかにただよっている雰囲気が、とても好きで、もう10年以上、聴き続けてしまっている。。

such a pretty house, such a pretty garden
no alarms and no surprises, please
(ちいさな家とかわいい庭 おびやかされることも、驚くこともなく暮らしたい…)

歌詞は、大まかには、もう色々とたくさんだから静かに暮らしたい、という内容なのだが、たぶんそれは文字通りの意味ではなく、どうしてこうなってしまったのだろう、でもこうなるしかなかった、という喪失感に満ちていて、自分は、その、言っていることと思っていることが引き裂かれている感じが好きでたまらなかった。

 

 

そういうギャップのある曲では、たとえばLou Reedの「Perfect Day」なんかも好きだった。完璧な日、というタイトルにふさわしく、歌詞が、恋人と公園でサングリアを飲んだり、動物園に行ったり、旅行に行ったり、君と過ごせてうれしい、君のおかげでやっていける、、みたいなことを言っているのだが、曲調が明らかに悲壮感にあふれており、それらの楽しいことが、すでに終わったものなのだろうことが暗に感じられるギャップがすごく良いと思った。

Just a perfect day
You made me forget myself
I thought I was
Someone else, someone good
(完璧な日 君は僕自身を忘れさせてくれた 僕が他の誰か、他のもっとまともな人間だったら良かった)

さらに、曲単体ではないが、MOGWAIの「Happy songs for happy people」というアルバムも好きだった。アルバムタイトルは、ハッピーな人たちのためのハッピーな曲、と謳っているのに、どう考えてもアルバムの曲の雰囲気は幸福感というより空虚感に満ちており、曲タイトルも、「Hunted by a freak(気狂いに狩られた)」「Boring machines disturbs sleep(退屈な機械が眠りを邪魔する)」「Stop coming to my house(オレの家に来るな)」など、ハッピー感は一切、ない。それでも収録曲は、時折すごくきれいなメロディがあって、空虚さの中に、それでも何かしらの幸せを感じられる。

こういう、言っていることと、本意が違う気がするような表現にはいつも惹かれる。今回リマスターされた、OK Computerも、OKNOTOKというサブタイトルのようなものが付いていて、最初コレなんだろうと思ったのだが、OK NOT OKと切ることができるのが分かり、自分としてはとても腑に落ちた気がした。OKはOKじゃない、、そのとおりだと、思った。

[告知] お茶の葉入り日干しレンガづくりのワークショップ

大学の後輩にあたり、設計や様々なインスタレーション制作などで活躍されている2.5 architectsさんが、7月8,9日の土日に、掛川で「お茶の葉入り日干しレンガづくりのワークショップ」を行うそうです。秋に開催される「かけがわ茶エンナーレ」にて、このワークショップで作った日干しレンガを使った茶室が建てられる予定だそうです。

面白そうなワークショップですので、静岡に在住のみなさん、参加されてみてはどうでしょうか。自分も参加してみようと思います。

ステルス

バタバタとしていて、ひと月以上もブログを更新できていなかった。

先日、疲れていたのでスーパー銭湯に行った。そこはファミリー利用者も多い、漫画喫茶とかレストランとかネットカフェ的なものが合わさったような大きなスーパー銭湯だったのだが、ふとインターネットコーナーを通った時、用意されたPC7-8台のすべてに、幼稚園から小学校低学年くらいの子どもたちが座っていて、全員が、それぞれYouTubeでゲームのプレイ動画を見ていたのが目についた。

Minecraftの動画を見ている子が2,3人いて、残りの半分は、たぶんそれぞれ違うゲームだと思うが、FPS(一人称)の動画を見ていた。戦場ものだったり、異世界ものだったり、いろいろあった。そのなかでも、年齢が一番低そうに見えた女の子が、ステルス系というか、メタルギアソリッドシリーズ的な、隠密行動しながら、見つからないように敵を倒すっぽいハードなゲームの動画に見入っていた。他の子らはけっこうドンパチやっている感じの画面だったのに対し、その子の画面だけやけにシリアスで緊張感ある雰囲気になっていた。

普通に流血表現などがあったので、レーティング的には18歳以上とかそういう内容のゲームだと思うが、一般的に、いまの小学生たちは、そういうゲームを普通に楽しみ、話す相手がいるのだろうか。仲間うちで、どのライフル銃が一番かっこいいか話したいのに、ポケモンGOの情報交換などに話を合わせているのか、それとも、敵の注意をひくための手榴弾の使い方などを話す友達がいるのか、わからないが、上記の子が動画を見る姿は、真剣そのもので、きれいな感じがした。

30歳を超えた人間が、小学生たちの背後で画面をじっと見ているのはおそらく問題があると思ったので、気づかれないうちに、その場を去った。

ウィーン・プラハ・ヘルシンキ

休みの間は旅行に出ていた。主に父親の旅に同行する形で、ウィーン、プラハ、ヘルシンキの3都市をまわった。どの都市も初訪問ではなく、特にウィーンとプラハに関しては昨年夏にも行っていたので、一年経たずして再訪した形となった。。。短期間で2回、訪れるとは思っていなかった。

ウィーンで見かけた、どこかの住宅の窓際。乱雑で、汚いのだが、個人的趣味としては、こういうものが落ち着く感じがする。空のミネラルウォーターのペットボトル、片方だけのスニーカー、やけに青々とした小さいレモンの木、布切れなど、関連性のないものが適当に置かれている。台にもホコリや土が積もっていて、きれいに飾ろうという気はないと思われる。ただ単にいらないガラクタをここに集めただけなのかもしれない。犬やカラスが、彼らの審美眼で、よくわからないものを寄せ集めるような、無垢な装いがある。

オットー・ワーグナーのウィーン中央郵便局、アドルフ・ロースのアメリカン・バーなどは、再び見られてよかった。

ミュージアム・クォーターのDesign Austriaという棟では、オーストリアのタイプデザイナーの展覧会などもやっていた。2,3年前にRed dot awardsなど受賞していたSindelarなど、見たことのあるタイプフェイスもあった。

プラハのキンスキー宮殿内にある国立美術館では、ドイツの画家ゲルハルト・リヒターの大規模な回顧展が行われていた。初期の作品から最新作まで、代表的な作品がかなりの量、展示されていた。好きな作家なのだが、どのように解説してよいのか未だに良くわからない。写真でもなく、絵でもなく、対象物の輪郭は常に焦点が合っていなく、とにかく薄ぼんやりと虚ろな感じが好きなのだが、何と言って良いのか、良くわからない。

ヘルシンキは3年ほど前に一度、来たことがある。その時もアアルトのスタジオと自邸を見学した。今回も見学し、とても良かった。空間自体はコンパクトなものなのだが、家具類や調度品、テキスタイルなどの諸要素との複合的な構成が相当にうまいと感じる。アアルトの死別した最初の妻も、二人目の妻も、家具やテキスタイルのデザイナーだったので、その二人との協業の結果との解説を受けた。。

1週間ほどで、3都市を回り、もろもろのものを見た。見るだけなら、誰でもできることだが、見た。

モネの庭

かつてよく遊んでいた公園への入り口。春ももうだいぶ進行したので、草がモサモサと生い茂っていた。この写真とは全く関係がないが、事務所の窓から見える景色も、日に日に緑が色濃くなっていくのがわかる。

この空き地のような、全く手入れされていない、複数の種が入り乱れた状態は、整理されていないのに見ていて落ち着くものがある。完全に枯れて色が落ちた背の高い草があって、今まさにポンポンと花開いている小さい草があって、奥には何種類かの樹木があって、手前にはやや南国調の趣のある低木があって… ぐちゃぐちゃとしてるのが、逆に光や色の拡散になって、良い感じだと思う。

完成度が違うが…こういう、ごちゃっとした庭は、かつて訪れた、フランスのGivernyにある印象派の画家クロード・モネの家の庭がまさにそういうもので、そこで自分は、そのごちゃごちゃ感の美しさを知って、強い衝撃を受けた…。ガーデニングなどだと、つい、植物の背の高さや、色彩などで、植物をバランス良くゾーニングして配置してしまいがちだと思うが、そのモネの庭は、見ようによっては、草花が好き勝手に生えたんじゃないのかと思えるような、混沌とした植栽になっていた。全方向に飛び散るように伸びまくる大小の葉っぱと、パラパラとそこらじゅうにばら撒かれたようなカラフルな小花で、光が乱反射して、庭全体がハレーションを起こしているような感じがした。モネは、景色を光の粒子に変えて、点描で描くという技法を開発して印象派を確立したが、この庭を見ると、本当にモネの絵の印象がそのまま現実化したような感じで、モネはこの庭をそのまま描いていたのだということが、よく分かった。

ちなみに、浜松市のガーデンパークという公園にも、この「モネの家」「モネの庭」を再現したという触れ込みの、「モネの庭」という一角がある。かつて開催された浜松花博というイベントの目玉の一つだったと思うが、「家」のほうはまだしも、「庭」は、本物と比べるとあまりにも違う。。地理的な要因で、そもそも太陽光の雰囲気がフランスと日本では違うだろうから、全く同じ植栽にしたとしても、たぶんあの乾いた光の乱反射の感じは再現できないのだと思うが…

静岡県県産品シンボルマーク

浜松市に点在するデザイナーたちを繋げて、それぞれの技術や知識を活かして相乗的にデザインの質を上げ、問題解決に取り組んでいくという、DORPという組織があります。そこの活動に参加し、静岡県の農林水産物などの県産品のPRに使用されるシンボルマークを、学生やデザイナーの皆さんとともに共同でデザインすることに関わらせていただきました。

今回のデザインは、静岡県庁内のプロジェクトチームの皆さん、そして静岡文化芸術大学の学生3名や、PLANPOT DESIGN WORKSの鈴木さん、写真と、企みの大杉さん、サイフォングラフィカの宮下さん、フロムフラットデザインの谷村さん、同様にフリーで活躍している桑田亜由子さんたちとともに、それぞれの知見を持ち寄って、複数回にわたるデザインレクチャーやデザインワークショップなどを重ねつつ、皆でアイデアをブラッシュアップしながら制作が進められました。先日、無事にプレスリリースがあり、今後、もろもろの県産品のPRを後押しできるものになっていくことを願っています。

カールステン・ニコライ展 パララックス

先日、千葉県市原市にある市原湖畔美術館に、カールステン・ニコライというドイツ人のミニマル系アーティストの展示を観に行った。この美術館は東京から電車を乗り継いで行くと2時間以上かかるのだが、東京駅から高速バスを利用すると、1時間ほどで最寄りバスターミナルまで着き、そこからはタクシーで5分ほどで美術館に着くことができる。公共交通機関ではおそらくこれが一番早いだろう。

なぜ、市原市という地方の小さな美術館でこの展示が開かれることになったのか分からないが、この作家は昔から好きだったので、多少、遠くても、どうしても観に行きたかった。とはいえ、今回はちょうど東京に行く予定があり、そのついでに、行ったのだが…。

この人の作品作りのアプローチは、とても科学的なもので、心電図のように規則的に波打つ線の映像や、雲の表面の凹凸をひたすら並べただけの映像、不規則な低周波の干渉で起こる、ぼやけたりちぎれたりする光の映像など、数学的な規則性や、ある物理法則の一部分をひたすら見せている。たとえば自然のなかで、水辺の波紋をずっと見ていたり、葉っぱが揺れる影を何となくずっと眺めていたりすることが、人にはあると思うが、そういう心地よい反復と、ろうそくのような少しの揺らぎがあって、無意識に引きつけられるものがある。

自然の映像などだと、情緒が発生してしまうので、邪魔だが、この人のは、ただの線だったり、白黒の明暗だったり、いかにも冷たそうな、感情を排した表現に徹しているのがとても良い。論理と感情は背反する要素と捉えられることが多いが、たとえば、科学者や研究者が、客観的な研究成果の発表をしているなかで、ふいに気がつくと美について語っている瞬間があるようなこともあり、それらは別物でなく、同様に想像力の産物なのだろうと思う。

寺田寅彦という物理学者の書いた本を読んだことがあるが、それは淡々とした文章で、こういうことがありました、そして次にこういうことがありました、それからこうなりました、こう思いました、という事実が記号のように静かに並んでいた。でもそれなのに確かな感傷があって、美しい余韻があった。今回、見たこれらの映像にも、同様の感傷があった。

展覧会を見ながら、確か…昔…小林秀雄?だったかが…詳しく覚えていないが、誰よりも豊かな想像力がないと研究者はできない、と書いていた文章を思い出していた。

ちなみに自分は文学や文学批評に詳しいわけでは全くない。こういう良い展示をみていると、今まで雑に読みかじった、もろもろのものが何となくつながって感じられる時がある。

(※これは、写真撮影が許可されている展示でした)

Vertical protter 1

最近は機を見て、一般にVertical protterと呼ばれる吊り下げ式のドローイングボットを作成している。2つのステッピングモーター(回転量をプログラムで制御できるタイプのモーター)を使って、吊り下げられたボールペンを上下させて、図形を描いていく。数年前に一度、簡易的なものを作ったことがあり、また作り直したいと思っていたのだが、そのまま数年が過ぎていた。。

今回またゼロからプログラムを作り直しているので、時間がかかっているが、ランダムな四角形を描くものは出来た。

ロゴと色の組み合わせを自動生成するサイト builtbyemblem.com

以前に、illustratorのスクリプトで、ランダムなフォントで文字を組んで、デザインのアイデア出しを効率化することについて書いたが、それと同じようなことが手軽にできる、とても良いウェブサイトがあった。Builtbyemblem.comというサイトで、文字列を入力すると、その文字列が様々な雰囲気のフォントおよび背景色で無限に表示されていく。各タイルをクリックすると、snsやモバイルアプリに展開したときのモックアップイメージまで自動生成されるようになっている。。

自分ではあまり発想しない雰囲気の文字や、組み合わせにも、こういうツールの力を借りることでアクセスすることができて、より柔軟な思考が得られるので、この手の便利サイトがあれば、またメモがてら載せていきたい。

4月

ずっとバタバタとしていて随分久しぶりの更新になってしまった。4月になったというのにまだ寒く、外を歩くと一応、春らしいものたちが控えめに存在しているが、例えば桜などもまだ大っぴらに咲いたりしていないようだ。

外に出れば数分で湖畔の公園に着くところに住んでいても、普段ほとんど篭って作業ばかりしているので、そうした自分の習慣がなかなか変わらないことに気が付かされる。

ずっとエンドレスで作業してしまうので、意識的に外に出て、公園を散歩してみると、まだ花の咲いていないつぼみ状態の桜の木の下で、シートを広げて、おにぎりなどの弁当を静かに食べている若い夫妻と子供の姿があった。平日の昼間で、人もほとんどいないうえに、桜並木の下には、花見の場所取りに関する注意書きのカンバンが並んでいて、開花後のおおきな賑わいを予感させる状況下で、ぽつねんと半歩早い花見をやっていた。

その様子がとても侘びた雰囲気で、良かった。千利休は咲き乱れる朝顔をあえて一輪だけ残して全て摘み取って、そのコントラストで侘び感を出したが、今回の花見家族は、あえて桜の咲く一瞬前の今日の日をえらんで、来週には華やいでしまうこの公園の姿を幻視させて、時空間のコントラストで侘び感を出していたようにも思えて、技巧的な気がして、なるほどと思った。。。

Elizabeth Peyton: Still life 静/生

品川の原美術館で、Elizabeth Peytonというアメリカの女性画家の展示を観た。「Still life 静/生」という展示タイトルで、国内では初の個展となるとのことだった。

from Michael Werner Gallery website

かなりざっくりとしたタッチで、透明感ある淡い彩度の肖像画を多く描いている作家で、エドワード・ホッパーとかリュック・タイマンスのような、あえてディティールを描き切らない素朴さのある形と、そこにあたる光の感じがきれいで、かなり良かった。

from ART-iT website

ロックミュージシャンのポートレートが何枚かあって、カート・コバーンとかシド・ヴィシャス、ジュリアン・カサブランカス、ピート・ドハーティ…などのものがあった。実際に会って描いているわけでなく、写真から起こしているらしいが、どれも本人の特徴をとらえつつも、何か未熟さを感じさせる筆づかいによって、素朴な表情になっていた。何か、中学生くらいの年齢の子が、憧れるままにスケッチブックに模写したような雰囲気があり、技巧的な感じが一切しないので、すごく親しみを感じて、いい絵だなと思った。

画家としてのキャリアが25年近くある作家なのだが、巧くなって退屈になってしまうことから逃れきっていて、良いなと思う…。遠い昔に絵を描いていたけど、久しぶりに絵筆をとってみました、といった雰囲気の、光をきれいに捉える成熟した観察眼と、それに追いつけない稚拙な筆づかい、といったアンバランスさが、凄く印象的なバランスになっていた。

石井明朝体

駅のそばの駐車場のエレベータの注意書きステッカーが、強い色彩とシンプルな線画で良い雰囲気だった。特に、「あぶない」の書体が、いまのDTPでは使うことのできない、写研の写植用書体、「石井太明朝体オールドスタイル」で組まれていて、味がある。

かつて日本では書体メーカーは写研とモリサワが2大勢力で、2大といっても、写研が7-80%のシェアを占めていたようだが、80年代後半に時代がコンピュータを使った組版(DTP)に移行していく中で、積極的に書体のデジタル化を進めたモリサワに対し、写研は独自路線で書体のデジタル化や販売を行わない姿勢を貫いたことから、シェアは一気に逆転し、写研はもはや使用されることはほとんど無くなってしまった。

しかし写研のフォントは、当時一大勢力を誇っていたように、その形の美しさや完成度は今もなお失われておらず、時々、どうしても写研のフォントでなければ雰囲気が出ないとこだわる書籍編集者や装丁者によって、ほそぼそと使われ続けているようだ。

このステッカーに関しては、写研のシェア全盛期の30年以上前に貼られたままずっとそのままなのか、あるいは、その当時の版下を使い続けているステッカー業者がいるのかどちらかだろうが、この独特のやわらかい雰囲気のひらがなは、たしかに目に留まる。

中田島砂丘

少し気分転換に海へ行った。天気が悪く、大降りというわけではないが、小雨とも言えない程度に、しっかり雨が降っている日だったにも関わらず、何となく家を出た。風はそんなに無いとはいえ、十分に寒く、明らかに海など行くような日ではなかったが、頭をリセットする必要があった。車で20分ほどで、浜に着く。

雨のおかげで砂浜が湿って固まって、歩き易くなっており、その点は良かった。通常であれば、足元が砂まみれになることは避けられない…。

浜には男女がひと組いた。てっきり無人だと思ったが、こういう雰囲気の海が好きな人たちかもしれない。しかしその二人は、自分より先に帰ってしまったので、その後は見渡す限り誰もいなくなった。

ここ中田島砂丘は、高校生だった頃、陸上部の練習(浜練と呼ばれていた)でよく来ていた。ある時、皆でダッシュ練習をしていたとき、テレビ局のディレクターなる人が突然現れて、今からドラマの撮影でこの浜辺を使うので、申し訳ないけれども場所を空けてほしい、協力してもらえたら粗品も提供するといったことを言った。当時の部長が、じゃあという事で場所を明け渡した。我々は遠くから、テレビ局のスタッフの方々が、ダッシュ練でボコボコになった砂浜を整地するのを見ていた。何かボロボロの格好でギターを抱えた俳優が出てきて、「この夢がかわいそうだよ」という歌詞の歌を熱唱しながら浜辺を歩いているシーンを撮影していた。我々は、なんでかわいそうなんだろうね、などと話しつつ、「粗品」を待っていたのだが、いつまでも撮影が終わる気配はなく、粗品というのも、部員一同どうでもよくなっていたので、他の場所で残りの練習をして、浜を後にした。結局、なんのドラマの撮影だったのかは、知らない。

 

中田島砂丘はアカウミガメの産卵地として知られているので、卵を安全に孵化させるためのケージが置いてあった。これは昔は無かった気がする…。

寒かったのと、海をちょっと見たら満足したので、すぐに帰った。

再加熱可能ペットボトル

コンビニで売っている温かいペットボトルのお茶、いつの間にか内容量500mlのものがかなり増えているのを全然知らなかった。確かに以前は、温かいペットボトルのお茶は少し容量少なめの350mlというのが定番だったので、若干割高感があったのだが…。さらに、伊藤園のものは、ペットボトルのままレンジに入れて加熱もOK!となっていて、進歩を感じた…。ペットボトルはレンジに絶対入れてはいけないはずだったが…。このペットボトルは、少し厚くて、透明度が若干低いようだ。

「さめてもおいしい」けど「レンジで再加熱もOK」という、すべてのネガティブ要素を潰していこうとするメーカーの努力…

デザインのルーツを開示することについて

昨年末のことになるが、静岡文化芸術大学でJAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の新人賞の巡回展がやっており、たまたま同大学図書館を利用した際に、見ることが出来た。3人のデザイナーのきれいなコマーシャルワークが展示されていた。

デザインでも、絵画でも音楽でもなんでもそうだが、どんな人であっても、「過去のどんな人の作品にも似ていない全く新しいもの」というのは、基本的には作ることが難しい。「過去のどんな人の作品からも一切の影響を受けていないもの」と言い換えると、それがどれだけ難しいことかが分かる。逆に言えば、何らかのベースがない限り、新しさというのは定義できないものなので、それが新しいというのなら、古いものが何なのか知っている、あるいは定義する必要がある。

誰もが何かから影響を受けて、何かを作っていくのだが、そのような、「この作品を作る上で、誰の、どの部分に影響を受けたのか」というルーツを知ることは、学びを得る上でかなり役に立つことだと思う。でも、そういう情報というのは、わりと隠されてしまっていることが多く、それによって、作品の理解のきっかけを損失してしまっていることがよくある気がする。

過去のいろいろな芸術家が、なにか新時代を作る作品を作ったときも、(あたりまえなのだが、)その主張は、「今までのものはコレだから古く、私が作ったものはコレだから新しい」という形式をとる。

例えばピカソがキュビズムを始めたときも、「今までの絵画はひと画面にひとつの視点しか入れてなかったから、私の新しい絵画はひと画面に2つ以上の視点を持つ」と言って、正面と側面のに2視点がくっついたような人物画を作った。学校で美術を習う際も、歴史を追うようにして芸術を教える(と思う)。ピカソが超天才だったのでいきなり最高に新しいものが出来ました、という説明ではなく、それまでにどんな絵画があって、どのような系譜でそこに至ったのかということは必ず説明される。というより、それが説明されるまで、少なくとも自分は、ピカソがどう凄かったのかというのをよく理解できなかった。

デザインについても同じことが言えて、何かトレンドになったレイアウト等を見た時も、それ単体のみを眺めているのと、それに至るまでの系譜を知った上で眺めているのだと、だいぶ見方が変わってくる。

そういう観点では、イギリスにいた際に行ったデザイン系の展覧会の中で、印象に残ったものがひとつあって、それは、SPIN 360という、ロンドンのデザイン事務所SPINの今までの仕事を集めた展覧会だった。

この人達の展覧会では、自分の仕事をただ紹介するだけでなく、自分が影響を受けた他のデザイン、自分のデザインの参照元を同時に大量に展示していて、むしろ自分たちの作品より、そういう先人たちの作品のほうが扱いが大きいくらいの勢いをもって、展示を組み立てていた。一応、個展のはずなのだが、個展というには全体に占める自作の分量がかなり少なかった。

でもその見せ方が自分にはとても面白く感じられた。レイアウトや文字表現の歴史がどういう風に進化していったか、そのうえで自分たちの仕事がどういう系譜に連なるものになるのか、歴史の中に自分たちの仕事を埋め込んでいこうとする意志がかなりあって、見る側にとっても、その人達がどういうものからデザインを学んでいったか、ネタ元が思い切り示されているので、その人達が何を新しく加えたのかが分かりやすかった。

正直、ほとんど過去の偉人のデザインをそのまま引用してるようにみえる作品すらあった気がするが、そういうのですら堂々と、ネタ元と自作を横並びで展示してあって、そのスタイルの普遍性を伝えているようで、清々しかった。それを見て、たしかに新しいものだけが価値を帯びるのでなく、すでにあった良質なものが失われずに受け継がれるだけでも価値があるとも思った。

誰もが誰かのスタイルから影響を受けていくものだが、この人達の展示は、それが2段階、3段階、それ以上に遡れるようになっていて、あくまで自分たちは無数の枝分かれのひとつというスタンスになっている。だから、あとからそれを見た人々に、まだ継がれていない枝の部分があることを感じさせて、その先の可能性を示唆しているところが、本当によい展覧会だったなと思う。。

サウンドデザインシンポジウム

昨年の話になるが、2016年12月16日に開かれたサウンドデザインシンポジウムin浜松というものに行った。なぜかネヴィル・ブロディ(というイギリスのかなり大御所のグラフィックデザイナー。前衛的なタイポグラフィ作品などで90年代に世界を席巻した。)が基調講演に来て、しかも無料だというので、応募して、聞きに行った。

サウンドデザインシンポジウムという、音関連のシンポジウムでなぜグラフィックデザイナーのネヴィル・ブロディが来るのだろうと不思議に思ったが、ブロディ氏は、教鞭をとっているRCAで、最近、「サウンドデザイン学科」という新しいコースを設立したらしく、視覚的なデザインだけでなく、音も含めて総合的なコミュニケーションデザインの領域を押し広げることに挑戦しているらしかった。講演のスライドによると、氏の専門であるタイポグラフィで、フォントが変われば伝わるメッセージが変わるように、音もメッセージに大きな影響を及ぼすはずで、それなしで新しいコミュニケーションデザインは作られないと思ったと言っていた。

サウンドデザインというものについては、Beyond composition(コンポジションを超えたもの。視覚的なレイアウトでは表現できないものという意味だろうか…?)、Perceived form(知覚された形。視覚以外のインプットでイメージされる形といった意味?)などと表現していた。

すでに作られた学生作品をいくつか紹介してくれていたが、それらがとても面白く、街中の構造物にマイクを付けて楽器化したり、貝殻に耳を当てると海鳴りのような音が聞こえるように、音響工学的に割り出された不思議な形状の彫刻を作って、それに耳を当てるといろいろなノイズが聞こえ、それらが海、森、都市といったようにストーリーをもって展開されていく一連の彫刻群など、見えていなかったものや、既存の何かを敢えて音に変換してみることで生まれるものを探求しているようだった。これについては、サウンドデザインの根幹をなす考えとして、これをSonification(音波化すること)と呼んでいるとのことだった。こうやって、ただ作品を作り出すだけでなくて、相当数のリサーチと、作品を作り出すプロセスを手法化し、Sonificationのようにシンプルな単語にまとめ、何を音波化したか、どうやって音波化したか、など、皆が作品を説明し合える基礎的土壌をつくった上で教育を行っているのが、やはり良いなと思った。新しい分野で、誰も何も良くわかっていないからこそ、皆で使える共通言語を作っていくことは有効なのだろうと思う。

講演が終わったあとに、少しだけ本人と話をできる機会があった。何か実際のプロジェクトで、このサウンドデザインの考えを実践した例があるのかと聞いたら、それは残念ながらまだ無いとのことだった。ただまだ何も確立されていないこの分野は、どのようにでも発展しうるし、そこを行くのが面白いとの事だった。ネヴィル・ブロディほどの知名度を誇り、数多くの達成をした人でも、そこにとどまらず未開の分野につっこんでいくのは、やはり期待を裏切らない感があった。

ちなみにこのシンポジウム自体は、浜松市がユネスコ創造都市ネットワークというものの音楽分野に認定されたことにより、2017年にサウンドデザインフェスティバル?なるものの開催を予定しているらしく、それに関連したウォーミングアップ的なものだったようだ…。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。久しぶりの更新になってしまいましたが、今年もどうぞよろしくお願い致します。

お世話になった人々に年賀状を出したのだが、なぜか一部が年内、クリスマス前あたりに届くという現象が起こってしまった…。宛先面には「年賀」と赤で書いてあるし、郵便局で係員の方に渡す際にも、年賀ですと言ったはずなのだが…。ちゃんと年明けに届いた人々もいるようなので、何らかのミスで一部が通常配達便に紛れてしまったのではと思っている。こういうミスがあると、出した年賀状の全てが本当に届いているのかどうかも、若干心配ではある。。

昨年は、大学卒業後から勤めていたソニーを退職して、赴任先のイギリスから帰国して浜松へ引っ越し、独立しての活動を開始したことで、環境が大きく変化した年になった。ソニーは、面白い人も多く、働きやすい会社だったし、3年間イギリスに赴任として送り出してもらえるなど、良くしてもらっていた。会社の業績が悪い年に入社したが、そこから7年、社内もどんどん変わり、徐々に上向きになっていくのも感じていた。ただ以前より、可能な限り一人でやれることは全て一人でやりたいと思っていたことに加え、またもろもろ興味のあるプログラミング、ジェネラティブアート、デザイン・芸術史、タイポグラフィ等の分野の学習と研究に割く時間のとり方の時間配分など含め、いろいろな意思決定を自分自身でできる状況で働きたいなと思っていたことから、退職してフリーになることを選んだ。

また、これはとても個人的なことになるが、退職に関しては、属していた企業があまりにも大きすぎて、自分が具体的にこの分野でこのように貢献している、というのが実感しにくかったということもあった。これは組織の問題ではなく、完全に自分の性格に起因するもので、昔から、自分は自己肯定感というものを持つことがほとんどできず、どれだけ自分が何かをやって、何らかの評価を得ても、それは外的要因によるもので自分の頑張りによるものではないと思いこんでしまうという、抜け出し難い思考の欠点を抱えていた。だから前職のような大きな会社にいると、自分のやったすべてのことは、たとえそれが規模の大きなプロジェクトで、自分がかなり意欲を持って取り組んでいたものだったとしても、すでに確立された会社の名前の上に成り立っているだけのものと感じてしまい、仕事自体は十分にやりがいのあるものだったのだが、意識の奥底で、自己肯定感の満たされなさをずっと感じてしまっていた。

この自己肯定感のなさというのは非常に厄介なもので、それは年齢を経ることで解消されるものかと思っていたのに、10代、20代、30代ときてまだ根強く残っていたので、さすがにこれと向き合わないことには、今後の自分の人生を生きるのに支障が出るのではと思った。自分は基本的に生真面目なので、前職の中でちゃんとやっていく事はできたとは思うが、やはりどうしても、この自己肯定感の欠乏を埋めないことには自分はまずいことになってしまうのではと思った。だから、一旦ゼロから何かを始めてみることで、それを克服したかった。

他にも大小様々な理由があるのだが、大きくはそんな理由で、自分は新しい目標をもって昨年の後半を過ごした。環境も、働き方も大きく変わったのだが、結構あっという間に過ぎてしまったので、まだ何か結果を実感できるというものでもないが、気持ちは非常に落ち着いているというか、自分の頭が回っていくのを少しづつ感じることが出来ているので、とりあえずこれで良かったのだと思う。