北園克衛:タイポグラフィに興味をもったきっかけ 03

先日、触れた「CHICAGO REVIEW」という本には、北園克衛の作品がふたつ載っている。

CHICAGO REVIEW より

CHICAGO REVIEW より

詩集のはずなのに、なぜかこのページだけいきなり写真が登場していて、なんだこれは?となる。。
一応、英文らしきものが部分的に使われているが、新聞の切り抜きか何かで、意味はなしていない。これは北園の後期の作品で、プラスチック・ポエムと名付けられた一連のシリーズで、写真のような詩、でなく写真そのものが詩という発想に到達していて、たまに日常生活でも、ちょっとした置物が夕日に当たったりしているときに、なんとなく詩的だね、などと思うような感情を、ある意味でそのまま「それが詩である」と言い切ってしまったようなものなのだと思う。

もともと詩を言語だけでなく、視覚的なものの総合芸術として考えていた北園は、初期の頃から不思議に構成的な詩をいくつか作っている。処女作である「白のアルバム」という詩集に載っている図形説という作品は、罫線とかブレース記号が言葉と組み合わされて、詩というかダイアグラムのようになっていて、普通のように読むことはできないが、言葉がそれ単体であるときより複雑なイメージを持って伝わってくる。

「カバンの中の月夜 北園克衛の造型詩」 より

「カバンの中の月夜 北園克衛の造型詩」 より

詩を、単に言葉だけによる表現とは見なしていなかった北園は、詩のリズムとか、文字の形とか、それが記される紙面空間とか、それらの総合で詩的なものを作ろうとしていた。おそらくこの詩人の最も有名な作品である、「単調な空間」という詩があるのだが、その一部はこのような感じになっている。

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角

これはいわゆる文字を絵のように扱ったコンクリートポエトリーの作品ではないのだけれど、きわめて抽象的な幾何学図形のついての詩で、その内容を、この独特な改行の仕方が強調している。この改行による「間」が印象をかなり特徴的にしている。反復されている感じが強調されるため、日本語を理解しない外国人にも、一種のミニマル・アート的な感覚で受け入れられたらしく、コンクリートポエトリーを先導していたスイスの詩人、オイゲン・ゴムリンガー等もこの詩を、原文とともに翻訳して本に載せたという。原文の日本語に現れる「四角」という字の四角っぽさなど、その硬質な見た目と、それらを繋いでいるひらがなの曲線的な対比なども、面白く海外で受け入れられたようだ。

世田谷美術館 橋本平八と北園克衛展カタログより

世田谷美術館 橋本平八と北園克衛展カタログより

北園はその独特な「間」への感性が優れていたために、実は詩人としてだけでなくデザイナーや挿画家としても活躍していて、かなりの数の作品を残している。特に文字の組み方については、余白をたっぷりと取って、小さめの文字を緊張感を持って置いていくスタイルがとても美しく、よけいな装飾も一切ないため、言葉が澄み渡るようにきれいに読めるという感じがあった。大学の図書館に置いてあった「空気の箱」という詩集などは、たとえばタイトルと本文の文字サイズは同じで、タイトルだけ太字になっているのだが、間をしっかり与えているために、タイトルは小さくてもタイトルらしく見えるし、本文とサイズも同じなので、紙面に変則的なリズムを作らず、淡々とした表情が展開されていって、詩集のタイトル「空気の箱」にもぴったり合っている。このように、要素を絞って、間だけで紙面の表情を作っていく北園克衛の仕事はかなり素晴らしいものが多くあって、間に対する認識がかなり変わったことを覚えている。

世田谷美術館 橋本平八と北園克衛展カタログより

世田谷美術館 橋本平八と北園克衛展カタログより

考えてみれば、言葉に対して誰よりも繊細な、詩人という人種が、言葉が置かれる紙面や空間について考えないことはまずない。その言葉に適した文字の形、大きさ、間隔などがあるというのは、良く考えてみれば確かに普通のことなのだが、こういう仕事を見るまではあまりそれが実感としてよく分かっていなかった。。

現代においても、例えば妖怪作家の京極夏彦などが、紙面レイアウトまで全部自分でやっているというのは有名な話で、紙面のレイアウトで印象が全然違ってしまうのががまんならないそうで、レイアウトに合わせて文章のほうを削ったり変えたりも同時にやっているという。京極夏彦は、読んだことがないけれど、、、。

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